癒し空間ひかりのしずく

鏡に映る影

第二章 闇に咲く光


じわじわと汗が(にじ)む暑い朝、オレは珍しく早く家を出た。
暑さのせいなのか授業中の居眠りのせいなのか眠りが浅く、いつもよりもずいぶん早く目が覚めてしまったからだ。

憂鬱なのは家にいても学校にいても同じこと。

いつもの時間帯よりも心持ち空いたJRを降りたオレは、急ぐ理由などないのに足早に学校に向かっていた。

舗装された並木道。
ナナカマドが脇見もせずに歩き続ける人々の上から瞬間的な木陰を断続的に提供している。

そんな風景の中でオレの目は見知った姿を捉えた。
反対側から歩いてきた山村がオレに気づくことなくするりと脇道に逸れ、公園の中に入っていく。

こんなところに公園があっただろうか。
いや、あったな。オレには関わりのない場所だから気に留めていなかっただけだ。

こんな時間の公園に何の用があるんだろう。

公園の入り口の両側に白いフェンスが並んでいる。
その隙間から公園内の様子が見えた。

白いセーラー服の後ろ姿が樹の間で見え隠れしている。

オレは山村の後を追って芝生横の白い小道を歩き出していた。


いわゆる児童公園とは違う、広く大きな庭園だった。
枝を広げ緑を茂らせた桜やニセアカシア、ズミ、イタヤカエデなどの樹が点在している。

オレが樹に詳しいわけじゃない、一本一本に打ちつけられた金属製のプレートに名前が書かれているのだ。

何種類もの百合や菖蒲(しょうぶ)が咲いている花壇のほかにも、小道の脇には木の樽のようなものに夏色の花が寄せ植えされていた。

おそらくこまめに手入れされているのだろう、園内は整然としていた。

壁のように並んだ背の高いコニファーの横に紫色のテッセンが蔦を這わせた白いアーチがあり、山村はその向こう側にいた。
花期を過ぎて濃緑色の葉が生い茂った藤棚の下、ベンチにひとりで座っている。

その足元で白いマーガレットが風に揺れていた。

山村は何をするわけでもない。
ただぽわんと寄せ植えの花を眺めている。

日光浴、なのだろうか。

…… ちょっと待て。
何をしているんだ、オレは。
女の子を陰から(のぞ)くなんてなんだか変質者めいている。

…… 引き返そう。
オレがそこから立ち去ろうとしたその時。

不意に ── 山村が微笑んだ。

光を弾く真っ白なつぼみが小さな花びらを一枚一枚ゆっくりと綻ばせていく。
風が吹けばすぐに散ってしまいそうなほどはかない、けれどなによりも(つよ)い、無垢な笑顔。

オレは息を呑んでその様子を見つめた。

山村はいつでも微笑んでいる。
けれど今のそれは初めて見る表情だった。

突如、山村が呆然と立ち尽くすオレの方に視線を向けた。

「あれ? 島崎くん、おはよう」

「おはよう」

オレは焦る気持ちを表面に出さないように、なるべく落ち着いた風を装って挨拶をした。

「こんなところで会うなんてびっくりしちゃった。
あ、ひょっとしたら誰かとここで待ち合わせ?」

「いや …… 天気が良かったから …… 」

我ながら苦しい答えだと思ったが、山村は納得したように微笑んだ。
すでにいつもの表情に戻っている。

「そうね、これだけお天気がいいとうたた寝しちゃいそう。
きっと気持ちいいだろうな」

「今寝たら授業中に眠れなくなる」

「じゃあ今眠った方がいいんじゃない?
また先生方に怒られちゃうよ」

「怒らせておけばいい」

ぶっきらぼうに答えたオレに気を悪くした様子もなく山村はくすくすと笑い、少し体をずらしてベンチの隣を指し示した。

「良かったらどうぞ」

ちょっとためらった後、オレは山村の隣に腰を下ろした。

「山村こそ、誰かと待ち合わせなんじゃないのか?」

「そうだったら良かったんだけど ── ふふっ。
私ね、この公園が大好きなの。お花がいっぱいで綺麗でしょ?
大好きなひととここで待ち合わせして一緒に学校に行くのが私の夢でね、今日はお天気がいいからひとりでシミュレートしてたの。
まだ好きなひとすらいないのに、おかしいでしょう?」

実に山村らしい答えだった。
笑い飛ばすどころか、あまりにも山村らしくて感心してしまう。

ということはさっきの天使の微笑は、心の中の王子様に向けてのものだったのだろう。

「笑わないの?」

「おかしくないから」

途端に山村がパッと顔を輝かせた。

「ほんと?他のひとたちには力いっぱい笑われちゃったんだ。
島崎くんっていいひとだね」

「いい人 …… ?」

「うん」

いきなり後ろめたさが倍増した。
ストーカーと思われてもおかしくない行為をしていたオレが『いいひと』なわけがない。

なるべく目を見ないように微妙に視線を外していたオレに、山村は満面の笑みを向けた。
危うく引きずられかけたオレはなんとか山村と視線を合わせずに話を続ける。

「誰にでも話すのか?」

「え?」

「さっきみたいな、夢の話、とか」

「うん、たくさんのひとに聞いてもらってるよ。
あのね、話す相手は人間だけど、みんな鏡なの」

「鏡?」

「そう、私を映す鏡。
私、他のひとたちに聞かせてるつもりで、実は鏡に映った自分に言い聞かせてるんだと思う。
何度も自分に向かって話しかけることでその願いを叶えたいっていう気持ちを強くしたいから。
強く望めば願いは叶うんだよ」

その時オレはかなり呆けた表情をしていたと思う。

「 ── あっ、でもね、鏡の話をしたのは島崎くんが初めて。
笑わないでいてくれて、うれしかったから」

「笑われるのがわかっていて、それでも話すのか」

中学時代、周りの人間に嘲笑された苦い経験が(よみがえ)る。
それが嫌でオレはますます本にのめりこんだのだった。

山村はそれを嫌だと思わないのだろうか。

「笑われてもいいの。
笑われてるうちは私も本気で叶えようとしてないんだと思う。
きっとね、鏡に映ったもうひとりの私が笑ってるのよ。
私の気持ちがその程度のものなんだって。
だから島崎くんに笑われなかったことは本当にうれしいの」

にこにこと山村が笑う。
話す内容がいちいち山村だった。
こんな人間が今時いるのが不思議だった。

オレは今、山村の隣にいる。
けれど山村の隣にいるのはオレでありながらも山村を映す鏡なのだろう。

オレだったら耐えられない。
周りの人間がみんな鏡。

そんなものに囲まれたらきっと発狂してしまう。
無様な自分の姿など見たくない。直視できない。

山村は強い。

これだけ清らかな心をもつからこそ他人を鏡にできるのだ。
醜い部分がないから鏡が怖くないのだ。

眩しかった。痛かった。

山村の瞳がオレを映す鏡になる ── 怖い。

苦しくなってオレはベンチから立ち上がった。

「もう時間?まだちょっと早いよ」

山村が腕時計を見た。

「オレは山村の王子様じゃないから山村の隣にいる資格、ない」

「え?」

意外な言葉を聞いたとでもいう風に、山村はきょとんとしてオレの顔を見た。

「学校でやっておきたいことがあるんだ、朝のうちに」

視線を外してとっさについた嘘。
途端に山村は表情を曇らせた。

「そっか、引き止めちゃってごめんね、その用事に間に合いそう?」

無言でうなずいたオレは思い出したように山村に声をかけた。

「また、学校で」

教室で話すことなどまずないのはわかっていたが。

「うん。 ── 島崎くん!」

背を向けて歩き出そうとした矢先に呼び止められ、振り向くと山村がにっこり笑って言った。

「あんまり眠ってると目が溶けちゃうよ。すごく余計なお世話だけど」

「わかった。居眠りしないように努力してみる」

オレは軽く片手を上げて返事をした。


努力をしたつもりはなかったが、その日一日、オレは居眠りをしなかった。
それどころか砂田が書いた落書きさえも消そうとしなかった。

今まで神経に障ってどうしようもなく嫌だった小さな落書きが、それほど気にならなかったからだ。

砂田の物足りなさそうな顔が視界の隅に入ってなんだかちょっと愉快な気分だった。



── ここは一年六組、いつもの教室だ。

オレはクラスメイトに囲まれていた。
みんな一様に無気力な表情でオレを見ている。

たじろぐオレの目の前で人数はどんどん増えていった。

中学校のクラスメイト、小学校のクラスメイト。
当時の姿のままで、一人残らずオレをじっとりと見つめている。

背筋が凍った。

嫌だ。オレを見るな。
そんな目でオレを見るな!

心の叫びに共鳴するように床が激しく揺れ動いた。
立っていられなくなったオレは膝をついて近くの机にしがみつく。

窓ガラスが割れ、壁が崩れ、教室の天井が落ちてきた瞬間、周りは暗闇に包まれた。



クラスメイト達の姿はない。
代わりにあるのは鏡。

(ほの)かな光に包まれ、無秩序に並べられた大きな鏡の群れが闇に溶け込むように立っているオレの姿を無数に映し出していた。

オレは手の中に石を持っていた。
ところどころに白濁した筋のような模様が入った不透明な青い石。

これは宝石の原石だ。

成長の途中にあるこの小さな石はオレにとってとても大切なものだった。
そっと指を広げて石を見つめたその時、横からそれをつまみ上げた手があった。

「何を」

「こんなもの、何の価値もないよ」

手の主に抗議しようとしたオレの言葉は途中で遮られた。
オレの隣にあったのは鏡だった。そして鏡に映っていたのは。

「遼!」

「ただのガラス玉がダイヤモンドにでもなると思ってるのかい?」

大切なものを粗末に扱う遼が腹立たしかった。
そしてそれと同じくらい哀れに思った。

遼にはこの石の価値がわかっていないのだ。

「返せよ」

嘲笑(せせらわら)いながら遼は別の鏡に向かって石を投げつけた。
石は像を反射し合う全ての鏡の中に小さく消えていく。

「何をするんだ!」

鏡の中にはすでに遼の姿はない。
映っているのは石を失った惨めなオレの姿だ。

握り締めたこぶしを遼がいた鏡に叩きつける。
薄い鏡は何の抵抗も示さずにパリンと割れ、まっすぐ下に崩れ落ちた。

遼は次々と別の鏡に移動していく。

オレは何かに憑かれたように遼が逃げ込む鏡を片っ端から破壊し始めた。
破片が飛び散り、肌にざっくりと傷を作る。
しかしそんなことに構ってはいられなかった。

「逃げるな、遼!」

とうとう鏡はたった一枚になった。
今までのはダミーだ。これが本物。

一瞬遼の姿を映し出した鏡は、今、オレ自身を映している。

こんなに敵意をむき出しにしているというのに、鏡の中のオレは相変わらず無気力でどんよりした表情だ。

これは間違いなくオレの姿。
認めたくなかった。
目を背けてしまいたかった。

けれど、これは鏡だ。
映し出されるのはありのままの自分に他ならない。

血まみれのこぶしで最後の鏡を叩き割った時、甲高い悲鳴のような音が耳をつんざき、あたかもその鏡が生き物であったかのように細かい破片の隙間から血の雨がオレに降り注いだ。

真っ赤な血液。動脈血の鮮やかな赤。

仕留めた ── 。

オレは遼をこの手で殺すことができたのだ。
押し寄せてきた充実感で涙が出そうだった。

オレは全身血まみれだった。
降りかかった血なのか自分の血なのかわからない。

足元に落ちていた鏡の破片を拾った。

べったりと血がついているその破片に、オレは静かに舌を這わせる。
硬く冷たい金属片にのった血液は変に苦かった。

鈍い痛みが走る。
割れた縁で舌先を切ってしまったらしい。

それでもオレは舐めることをやめなかった。
血を舐め取ることに夢中になっていた。

破片についた遼の血と。
切れた舌から滲むオレの血と。

ふたつはオレの中で混ざり合う。

オレを脅かす遼はもういない。

遼はオレになったのだ。


気がつくと手に持った破片の表面はすっかり綺麗になっており、オレの顔の後ろに白い光を映し出していた。

振り向くと月のように優しい銀色の光に包まれたマーガレットが一輪浮かんでいる。

鏡の残骸しかないこの闇の中で白い花を包む穏やかな光はこの上もなく暖かいものに感じられた。

手を伸ばせば容易につかむことができる距離に、それはある。

だが、まだだめだ。

今、この花をつかむだけでは本当に欲しいものは手に入らない。
それを手に入れるためには。

オレはマーガレットに背を向け、闇の中へ歩き出した。

闇の中に、まだ無数の鏡があることをオレは知っていた。
それは静かになりを潜め、オレに見つけられるのを待っている。

全ての鏡を見つける必要はない。
今必要なのはたった一枚だけだ。

必ず見つける。見つかるはずなのだ。

── 強く望めば願いは叶う。

力を込めて(まぶた)を閉じ、ゆっくりと開いた時、オレの前に鏡があった。

「見つけた ── 」

鏡の中に山村がいた。
公園で見せた清らかな微笑でオレを見ている。

「オレの石がどこにあるか知らないか」

山村は白い指先でそっとオレの右手を指した。
オレの汗ばんだ血まみれの手の中には失くしたはずの原石が握り締められていた。

「いつの間に …… 」

「ほんとはずっと島崎くんの手の中にあったんだよ」

山村はくすくす笑い、くるりと背中を向けて鏡の奥へ消えていこうとした。
思わず伸ばしたオレの手が鏡の表面で鈍い音をたてる。

山村が振り向いた。

「島崎くん、ひとを嫌いになるのは、そのひとの嫌な部分が自分にもあるからそれを見るのがつらくて嫌いになるの。
好きになるのも同じこと。
自分にない部分に憧れているように思えても、本当に自分の中にないものなら気づくはずがない。
ほんのひとかけらでも自分の中に同じ部分があるから憧れることができるのよ」

「他人のいい部分も悪い部分も、自分の中にある …… ?」

「そう。だから自分の中の嫌なところもいいところもひとを見る時に全部あらわになる。
嫌な部分は直していけばいい。(うらや)ましいと思った部分は育てていけばいい。
ひとを鏡にするっていうのはそういうことよ。
ひとを通して自分を客観的に見つめるの」

山村は透明な視線でオレを見つめた。

「鏡が映すのは自分自身。
今鏡の前に立っているのは島崎くん。映っているのは私。
ということは?」

「 …… 山村の強さが、オレにもある、のか」

「島崎くんが私に感じたすべての性質は島崎くんのもの。
自分にない他人のものだなんて傍観してちゃだめ。島崎くんももってるの。
島崎くんの中にはいろんな島崎くんがいるわ。
逃げないで自分を見つめて、みんなを認めてあげて。
ひととの関わりを避け続けることは自分から目を逸らすことと一緒よ。
── ほら、石が成長し始めたわ。今まで止めてた分もね」

山村はにこりと笑うと姿を消した。

代わりに鏡の中にはぼうっとオレの姿が浮かび上がる。
映ったオレの目はもうどんよりと曇ってなどいない。

いつか夢で遼に殺されそうになっていた牡鹿の澄んだ瞳の輝きがあった。


手の中に握り締めていた原石を見つめる。

オレの目の前で青い原石は急速に成長し、頂点が鋭く尖ったピラミッドの形になっていた。

ああ、これを待っていたんだ。

オレは石を両手で持ち直し、そのシャープな先端を自分の胸に思い切り突き立てた。
呼吸ができなくなるほどの激痛が走り、オレはその場に崩れるように座り込んでしまう。

深く刺さった石が鮮血を吸い上げて青から紫へと色を変えてゆく。
不純物が混ざって濁っていた原石は透明度を増し、神秘的な輝きを放つアメジストに変化していった。

宝石となった四角錘は自然にずぶずぶと体から抜け出し、それと同時に胸の傷も塞がってゆく。

完全に抜けたアメジストの先端には卵が刺さっていた。
井戸の中に落としたと思っていた卵も、本当はもともと落としてなどいなかったのだ。

宙に浮かぶアメジストと卵を両手で受け止めたオレの体の奥で、ざわざわと心地よい波が生まれたのを感じた。

ゆっくりと体中に広がるその波が指先まで届いた時卵にひびが入り、弾けた殻の中からポウ、と光に包まれたマーガレットが現れた。

再び目の前に現れた花に向かって伸ばした手が白い花びらに触れた瞬間、オレは眩しい光に包まれた ──



夢、だった。

体を起こして両手を見る。
血まみれだったはずの手には、花も石も鏡の破片も持ってはいなかった。

こんなに鮮明で感触がリアルな夢はおそらく生まれて初めてだ。

オレはこの手で遼がいた鏡を壊し、遼を殺してしまった。

オレは ── 殺したいと思うほど遼のことを憎んでいるんだろうか。

その死以来、何をするにも何を考えるにもいつも遼がオレの中にいる。
オレの中にいる遼がオレを束縛している。

その鎖を断ち切りたくて、オレはあんな夢を見たのだろうか。

公園で山村は「他人は自分を映す鏡」だと言った。
鏡に映った自分に願いを言い聞かせ、願いを叶えたいという気持ちを強くするのだと。

強く望めば願いは叶うから。

直接神や仏に頼るのではなく、まず自分に言い聞かせるというところが山村の強さだろう。

── 山村はあまりにも(まぶ)しすぎる。
畏怖を感じてしまうほどに。

ひょっとしたらオレは山村という存在に救いを求めているのかもしれない。
だから鏡に映った山村はオレを導く言葉を告げたのだろう。

他人がもつ性質は多かれ少なかれ自分にもある、か。

それはいつか夢中になって読んでいた本にあった内容だ。
他人を通して自分を客観的に見つめる。

そうだ、オレを見つめていたクラスメイトの目。
あれはオレの目だ。

彼らに見つめられるのが怖かったんじゃない、オレが自分を見るのが怖かったんだ。

オレは石を遼に取られたと思っていたが、本当はずっと自分で持っていたらしい。
真実を見ようともせず、遼に取られてしまったことにして責任を押しつけていたのだ。

しかし鏡に映るのは自分自身だ。
ということは石を奪った遼もまた、オレなのだろう。
自分の姿を直視せずに逃げ続ける自分を、遼の姿に仕立て上げて殺したのかもしれない。

でもなぜ遼の姿を借りなければならなかったのだろう。
やっぱりオレは遼を憎んでいるのだろうか。

…… 堂々巡りになってしまうな。

そう考えて、ふっと口元が(ほころ)んだ。


── なんだ、笑えるじゃないか。


考えてみれば以前はしょっちゅう笑っていたはずだ。
もうずいぶん前から笑わなくなった気がする。
遼が死んだあの日から。

あの日にオレは遼と共にいろいろなものを失った。
笑顔もその内の一つだと思っていたが、今笑えたということは失ったわけではなかったらしい。

そう言えば、夢を手掛かりにして自分を分析してみるのも久しぶりだった。

『ほんとはずっと島崎くんの手の中にあったんだよ』

その通り、失ったと思ったものはまだこの手の中にある。
── 遼を除いては。


遼はもういない。

そんなことはわかっている。ずっと知っていた。

なのに。

どうしてオレは今、初めてそのことに気づいたような衝撃を受けているのだろう。

遼は死んだ。もうどこを探してもいない。
…… 二度と、会えない。


ポタ、と手の甲を生温かい水が濡らした。

涙? オレは今、泣いているのか。

遼の葬式でも泣けなかったオレが、どうして今頃。

空になっていた心にいろいろなものが一気に戻ってきたような気がする。

涙を拭ったオレは外の空気を吸おうと窓を開けた。
心地よく澄んだ空気が部屋に流れ込んでくる。

薄明の空にひときわ明るい星が一つ、輝いていた。



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