鏡に映る影
第一章 罅(ひび)
道立練音高等学校。
偏差値が高いと評判のこの高校に、なぜかオレ島崎守は合格してしまった。
入学式を控えて待機していたオレ達一年六組の教室に、眼鏡をかけた壮年の男が入ってきた。
このクラスの担任になるらしいその男は教壇に立つなり、おや? と怪訝な顔になる。
「どうしたんだ?」
担任の言葉に生徒達がその視線の先を一斉に見る。
窓際の一番後ろの隅で、春のやわらかな陽射しを半身に受けた女の子が所在なげにぽつんと立っていた。
「あの …… 机がないんです」
そう言った女の子ははにかむように笑った。
おいおい、笑ってる場合か?
クラス中をざっと見渡しても余っている席はない。搬入時のミスだろうか。
「それはすまなかった。── 君」
その時折悪しく目が合ってしまったオレに担任は話しかけてきた。
「悪いが、この廊下の右突き当たりに教具室がある。そこに余った机があるから持ってきてくれないか」
なんでオレが。そっちの不手際だろ。
心の中で毒づきながらもオレは返事をして教室を出た。
小柄で見るからに線の細いあの女の子に机を運ばせるのは可哀想な気がしたし、嫌だと突っぱねるのも大人げない。
鍵のかかっていないその部屋は粉っぽい乾いた匂いがした。
丸めた地図や大きな三角定規やホワイトボードなどが整然と並ぶ棚の脇に、言われた通り机が五つほど重ねて置いてある。
その中から汚れの少なそうなものを選び、椅子を逆さにして机の上に重ねたオレはそれを持って教室に向かった。
選んだのは別に女の子のためじゃない。運ぶオレの制服が汚れるのが嫌だったからだ。
がらりと教室の後ろのドアを開け、窓際の女の子のところへ机を持っていく。
好奇心むき出しの眼差しをいくつか感じた。
煩わしい。 好きでやってるわけじゃないんだ、放っといてくれ。
無言で机を置き、すぐに自分の席に戻ろうとしたオレは袖の端をひっぱられ、ぎょっとして振り向いた。
「ありがとう」
彼女はオレの目をまっすぐに見つめて微笑んだ。
小動物を思わせる無邪気な黒い瞳。
その眼差しは透明で深い。
そのまっすぐさが、刺さるようで痛い。
彼女の瞳にオレの姿が映っている。
それは彼女の視線を媒介にしてそのままオレの目に滑り込み、強引に心の中にまでも入り込もうとする。
怖い、と思った。
彼女の視線は危険だ。
引き剥がすようにして視線を外し、オレは自分の席についた。
今朝、生徒玄関前のホールに設けられた受付で配られたネームプレート。
彼女もそれを胸に付けていた。
このクラスで最後尾の出席番号をもつ彼女のネームプレートには、山村、と書かれてあった。
── 暗い部屋だ。
地下室なのだろうか、窓は見当たらない。
何本かの太い蝋燭に火が点り、部屋の中をちろちろと照らしていた。
黒い光沢のある布を敷いた壇の上に動物が横たわっている。
死んではいない、足を縛られているので動けないだけだ。
まだ若い牡鹿だった。
くるんとした丸い瞳は毅然として美しく澄んでいる。
スッと蝋燭の前を人影が横切った。
黒い装束を纏ったその人物は牡鹿の前で立ち止まり、祭壇の傍らにあった赤い液体の入ったグラスを手に取る。
彼はその中に指を浸し牡鹿の額にそっとのせた。
嫌がるように首を振る牡鹿を左手で押え、描かれたのはペンタグラム、五つの頂点をもつ星だ。
頂点の一つが真下をさしている逆さの星型だった。
牡鹿が力を失いくたりと崩れる。
「呪いを、かけてあげるよ」
くるりとその人物がオレの方を見た。
部屋の中にはいないはずのオレをまっすぐに見据え、彼はぞっとするような笑みを浮かべて話しかけた。
「守が決して僕を忘れないように」
だめだ、そんなことをしてはだめだ!
再び牡鹿に向き合った彼はグラスに残っていた液体を一気に飲み干した。
懐から取り出したのは一本のナイフ。
牡鹿に向かって振りかざしたナイフが蝋燭の朱みがかった光をキラリと撥ね返す。
やめるんだ、やめてくれ!
遼 ── !!
────────── 目が、覚めた。
まだ真夜中だった。
どくどくと心臓が踊っている。ひどい汗だ。
べたつくパジャマを脱ぎながらオレは夢を思い出し、ふとため息をこぼす。
わざわざそんな姿で夢の中に現れなくても、呪いにならとっくにかかってるよ、遼。
着替えを済ませたもののすぐに眠る気分にはなれず、テーブルライトが頼りない光を投げかける中でオレは力なくベッドに腰かけた。
谷口遼は中学時代の親友だった。
その頃のオレは本に夢中で、心理学関連の本を特に気に入っていた。
難解な専門用語の羅列の大半は中学生のオレの頭では理解できなかったものの、とても大切なことが書かれているような気がしてただひたすらに読み続けた。
読み進むうちにその意味することがおぼろに見えそうになっても、つかもうとした途端に霧散してしまう。
知りたいと思った。
それさえわかれば世界観が変わるとさえ信じていたのだった。
もともとオレは知識欲が旺盛で学習することを楽しいと思える得な体質だったため当初の成績はかなり良く、一時には優等生の遼と並ぶほどだったのだ。
ただ、一つのことにのめりこむと周りが見えなくなってしまう。
自分の世界に入り込んでしまったオレの学力は、それはもう見事なまでに急降下した。
「そういう専門的なことは大学に行ってから研究しなさい」
本を読むことを奨励してくれていた周りの大人たちがオレを批難し始めた。
誰もわかってくれない。
それでいいのか? それで間に合うのか?
別に日々の生活に不満があったわけじゃない。
家庭は円満だし、友人はいなかったがいじめられているわけでもないし、成績が落ちたといってもそれまでが良かっただけで平均点くらいはギリギリ取れていたから問題にするほどのことではない。
ただ ── 何かが足りない気がしていた。
心理学の知識ならその空白の部分を補って余りあるとオレは考えていたのだ。
遼はその時クラスメイトのひとりだった。
品行方正な上に成績優秀で誰からも好かれる遼は、密かにオレをライバルとして意識していたらしい。
オレがいきなり順位を下げたその原因を、遼は気にかけているらしかった。
自分と競い合った人間が、勝負を捨ててまでも興味を引きつけられたもの。
実際オレには遼と競っている意識など全くなかったのだが。
「ねえ、その本ってそんなにおもしろいの?」
最初のうち、オレは遼をかなり邪険に扱っていた。
それでもなかなか引き下がらない遼に、面倒になったオレはつい話してしまったのだ。
心理学に興味があること、将来その道に進みたいと思っていることを。
「なんだ、じゃあ、やり方を間違ってるよ。
心理学って人の心の学問でしょう、本じゃなくて人を研究しなくちゃ」
遼は無邪気に笑って言った。
それまで頭ごなしに説教されるばかりだったオレは不思議な気持ちで遼を見た。
「そんなに心理学にこだわるのはどうして?」
人の心を知ることで自分の周りの世界がもっと別なものに見えてきそうな気がしたから。
退屈でつまらない普段の生活を変えられそうな気がしたから。
「そんな回りくどいことしなくても …… あのさ、守は本当に周りをよく見てる?
退屈なのもつまらないのも、守が自分から動こうとしていないからじゃない?
変化は起きるものじゃなくて起こすものでしょ」
「変化を、起こす?」
「うん。環境は自分次第で変えられるんだよ」
オレはその時初めて遼という人間を観た。
眼鏡の奥できらきらと目が輝いている。
冴えない風貌にも関わらず、明るい印象を与えているのはにこやかな表情のせいだろうか。
遼の言葉を聞けば聞くほどその通りのような気がしてきた。
他の人間に話した時には笑われ、呆れられ、馬鹿にされた。
でも遼は、遼だけは真面目に聞いて、真剣に答えてくれた。
── この時からオレと遼は親しくなっていくこととなる。
遼の言葉で、オレは改めて周りを見つめてみることにした。
本から知り得たわずかな知識を基に、人を観察してみようと思い立ったのだ。
しかし他人にはオレの認識の範囲を超えた背景がある。
深くつきあってみなければ分析しようにもできない。
そして興味は自然に他人よりも自分へと向かっていった。
自分がとった行動にはどんな意味があるのだろう、どうしてそう考えたのだろう、と。
他人とのつきあいが刺激になって心は動く。
自分を知るために世界は広がっていった。
オレは周りの人間に積極的に話しかけるようになっていた。
変化を起こしたのだ。
最初に友人になってくれたのは遼。
毎日の生活が退屈でもつまらないものでもなくなった時には、遼はオレにとってかけがえのない大切な人間になっていた。
親しくなってから気づいた遼の癖があった。
遼はいつでも人から期待されている。
「遼なら大丈夫」「頑張って」
励ましの言葉をかけられた時には決まって、片手で自分を抱きしめるようにしながらもう片方の腕をつかむのだ。
袖にシワができるくらいに、強く。
時にはつかんだ手が小さく震えていることもあった。
それは無意識に自分をかばって不安や緊張に耐えているジェスチャーだ。
遼自身は全く気づいていなかったらしく、そのことを話すと苦く笑った。
「守には隠しごとできないね」
いつもソツなく周囲の期待に応えていた遼は、実はふわりとした笑顔の裏でプレッシャーと壮絶に戦っていたのだった。
それまではなんとか乗り切ってきたものの、これから先どうなるかはわからない。
いつでも失敗してしまった時の不安が胸にある。
時々強すぎるプレッシャーに押しつぶされそうになってしまう。
それは誰もが多少は感じている不安だろう。
しかし優等生の遼が感じていたそれは並大抵のものではなかったのだ。
できなかったものは仕方がないと諦めるだけのオレとは違って、責任感が強すぎる遼は計り知れないほどの大きな罪悪感に苛まれてしまうのだった。
「仕方ないよね、きっとそういう性分なんだよ」
遼はとても痛そうに笑っていた。
オレはなんとかして少しでも遼の心を軽くしてやりたかった。
精神医学の本を読み進めていくうちにわかったことがある。
遼の性格は鬱病にかかりやすい要素を多分に含んでいるのだ。
周りからの期待に応えようと常に高い水準を自分に要求し、ほんの少しでも失敗すると過剰なほどに自分を責め、落ち込んでしまう。
実際に遼が鬱病だったわけではないのだが、その治療法にも目を通してみた。
励ましの言葉をかけることをやめ、共感や労りの言葉をかけて本人の負担を軽くすること。
自分のペースを守り、自分を大切にするよう心がけさせること。
それは遼にも有効のような気がした。
オレにはできる。
しかし周りの人間全てにできるはずがなかった。
特に受験を間近に控えた時期ということもあって、先生も両親も周りの友人も顔を合わせる近所の人さえ、会う度に「頑張れ」と声をかけるのだ。
それが遼をどれだけ追いつめていくかも知らずに。
「無理するな」とか「少し休め」などと言えるのはオレだけだ。
オレ一人でできることには限界があった。
日常生活に返り咲き、ある程度まで成績を復活させたオレは遼と共に練音高校を受験し、オレが受かり、遼が落ちた。
入試当日の遼のコンディションは最悪だったらしい。
自分が何を書いたか覚えていないほどに緊張し、かなり思いつめた様子だった。
けれどそんな状況の中でさえ、オレは遼が落ちるなんて夢にも思わなかったのだ。
遼ならば大丈夫だと心の中では思っていた。
それが知らず表面に出て、遼を更に追いつめていたのかもしれない。
私立には受かっていたものの、それは遼にとって初めての挫折だった。
恐れていた事態が起こってしまったのだ。
二人で見に行った合格発表の帰り道、一緒に私立に行こうと言ったオレに、遼は目を合わせずぽつりとつぶやいた。
「守の心理学は、僕には全然役に立たなかったね」
いつも周囲に気を遣っている遼が初めてこぼした棘のある言葉。
正しい知識もないままに、オレは隠されていた遼の弱い部分を中途半端に掘り起こしてしまった。
それを癒すだけの力などなかったのに。
オレは遼に何もしてやれなかった。
それどころか、わざわざ閉ざしていた傷口を広げてしまったのだ。
そんなことになるくらいなら、いっそ遼の抱える不安にも気づかなければ良かった。
遼に対して申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
なのにオレはもう一つ苦々しい気持ちが湧き上がってくるのを抑えることができなかった。
たった一人、オレを理解してくれていると思っていた遼。
遼も他の奴らと同じで、本心ではオレのことを蔑んでいたのだ ──。
そして今、オレは遼のいない練音高校に通っている。
遼はオレを憎んでいるだろう。呪っているだろう。
もう友達なんていらない。
役に立たない知識など求めるだけ無駄だ。
気がつくともうすぐ三時だった。
眠くはなかったがオレは布団をかぶり無理矢理瞼を閉じた。
入学式の一件以来、オレはふとした拍子に山村が目につくようになっていた。
特別に目立つ外見をしているわけでもないのだが、その表情と仕種、声が実年齢よりも幼いイメージに仕立てているようだ。
オレが知る山村はいつも微笑んでいる。
誰に対しても目を見ながら笑顔で楽しそうに会話している。
昼休みには必ず別のクラスから弁当持参で友人らしき女生徒が訪ねてきていた。
たぶん中学が同じだった友人なのだろう。
背が高く活発そうなその女生徒は小柄で物静かな山村とは対照的だった。
「しまざきー」
ぼーっとしていたオレにクラスメイトのひとりが声をかけてきた。
頬杖をついたまま、目だけで相手の顔を見る。
「次のー、リーダーの訳ー、予習してあるー?」
「やってない。今日オレ当たらないはずだから」
「そっかー。昼寝の邪魔してごめんなー」
彼はオレが眠っていたのだと思っていたらしい。
口先だけで謝ると別の奴のところへ同じことを聞きに行った。
語尾をのばした頭の悪そうな喋り方。いらいらする。
入学してからクラスメイトに対するオレの態度は一貫していた。
話しかけられれば答える。用事がない限り、自分から話しかけることはしない。
だから友達はいなかった。
他人から構われたくない。うざったい。
一人でいいと思った。一人がいいと思った。
女子のグループから一層楽しげなさざめきが起こる。耳障りだった。
何がそんなに楽しいんだ。いいかげんにしろよ、黙れ!
心の中で叫んでみても彼女らが静かになるわけがない。
八つ当たりだ。わかっている。
自分が楽しくないから他人に当たっているだけだ。
楽しく過ごせる人間がうらやましいだけだ。
何がそんなに楽しいんだろう。
本当に楽しいのか?
楽しいふりをしているだけじゃないのか?
遼もオレの前であんな風に楽しそうに笑っていた。
でも心の中ではオレを侮蔑していたんだ。
世の中は嘘で満ちている。
何もかもが信じられない。
オレは何のためにこの高校に来たんだろう。
入学してからというもの、オレは鬱屈した日々を何の目的もなくただ機械的に過ごしている。
何か目的でもできればオレは変われるのだろうか。
以前は夢中になって読んでいた本も今では埃をかぶっている。
オレは心理学への興味関心が昂じて、変な方向に突っ走っていたことがあったのだ。
突っ走るどころか動くことさえしなくなった今のオレが目的など見つけられるはずがない。
この高校を卒業するまでの三年間では。卒業してからも、ずっと。
ふと、入学式の日に山村の目に映った自分の姿を思い出した。
瞳の中でオレは溺れていた。
けれどあがくことすらせずに濁った水の中へただ沈んでいこうとしている。
あの日オレは、山村の視線から戻されてきた自分が叫んでいるのを感じた。
もっとあがいてみろ、と。
しかしこんなに沈んでしまった今となっては、もう、きっと、助かることなどない。
助かりたいとも思わない。
次の英語の授業は出席番号順に指名される。
前回当たったばかりのオレは余裕だった。
きっとまたオレは眠ってしまうだろう。
眠気など微塵も感じていないのに。
放課後、生徒指導室で居眠りについての厳重注意を受けて教室に戻ってきたオレは、自分の椅子の背もたれに落書きを見つけた。
稚拙な絵が描き散らされている。
何の意味もない、ただの落書き。
けれどそれを見た途端、オレ自身が汚されたようなすごく嫌な気分になった。
誰もいない教室でオレは椅子の落書きを消し始めた。
椅子自体が汚れていたようで消しゴムをかけた跡が他の部分よりも綺麗になっている。
気になった。
丁寧に消しゴムをかける。
全体が綺麗になった。
落書きされていた箇所にもう一度念入りに消しゴムをかけ、そのかすを拾い集めてごみ箱に捨てた。
使い始めてからそう日のたっていない消しゴムはすでに三分の一の大きさになっている。
なんだか少しすっとして、オレは教室を後にした。
しかし次の日の昼休み、購買でパンを買って戻ったオレは再び椅子の落書きに気づくこととなった。
舌打ちして消しゴムを取り出す。
すっかり消した後、敢えてかすは落としたままにしておいた。
五時限目が終わってから見るとまた落書きされている。
授業中、背もたれに何かを叩きつけているような感触は気のせいではなかったのだ。
後ろの席の奴が書いたに違いなかった。
「これ書いたの、砂田?」
「おう、ニューバージョンだ」
胸を張って答える砂田光にオレはきつい視線を向けた。
「やめろよ」
「なんで? いいじゃん、ラクガキぐらい」
砂田はどうしてオレが怒っているのか理解できない様子だった。
「不愉快なんだ」
それだけ言って消しゴムで消す。
「ちぇ、神経質な奴」
砂田はそれ以上何も言おうとしなかった。
ところが落書きは次の日にもあった。
砂田の仕業だとわかっていた。
「やめろって言ったじゃないか」
にやりと笑って砂田が答える。
「俺さー、目の前にラクガキがあるとすごく落ち着くんだよねー」
「だったら自分の机に書けよ」
「机に書くと教科書やノートが汚れるじゃん。
いかにも『ワタシ、勉強してます』 ── って感じにさ。
俺正直者だから勉強なんかしてない素顔の自分をぴかぴかの教科書でアピールしているのさっ」
おどけた口調で答える砂田に憤りを感じながらオレはわざと乱暴な手つきで落書きを消した。
「あれえ、消しちゃうんだー」
俺は黙ったままだった。
そうして砂田とオレとのいたちごっこが始まった。
書けば消す。消せば書く。
いくつの消しゴムを消費しただろう。
オレの席の後ろにはいつも消しゴムのかすが落ちていた。
夢を見た。
オレは砂漠を歩いていた。
進む足は一歩ごとに浅く砂に埋もれる。
風が砂を舞い上げ、後ろに残してきたオレの足跡を消していく。
ぼんやりとオレは考えていた。
足跡は消えても砂には踏まれた記憶が残るだろうか。
歩いた記憶はオレの中に残るだろうか。
砂が目に入ってひどく痛む。
乾いた砂漠の中では砂を洗い流すための涙は出ないのだ。
喉が渇いていた。
水を飲みたい……。
井戸を見つけた。
地面の中にぽっかりと空いた井戸は覗き込むと水面が見えないほど深く、暗い。
水をくみ上げるための釣瓶はなかった。
覗き込んでいたオレの胸元から卵が滑り落ち、井戸のずっと下の方でパシャンと水音を立てる。
── 卵!
オレは蒼白になった。
割れてはいない。
この程度の衝撃で割れるはずなどない。
しかしあの卵はどうしても必要なのだ。
井戸の内側に足場はなく、手繰って降りる釣瓶もない。
だからといって深さの不明な井戸の中に飛び込むのは自殺行為に等しい。
井戸の側に太い樹が立っていた。
その枝から輪になった短いロープが下がっている。
ああ、あそこで考えよう。
北欧神話で神々の長オーディンが神聖ルーン文字を得るため、世界樹ユグドラシルの枝で首を吊ったのを思い出す。
オレも首を吊ったら何か知恵を授かるかもしれない。
ロープの輪に首を通した瞬間、樹がぐん、と伸び、オレは足場を失った。
首をロープに吊られて左右に揺れながら、オレは考えていた。
どうしたら卵を井戸の中から取り戻せるかを ──。
生物教室からの移動でオレは階段を昇っていた。
外は雨だ。
誰かが濡れたままの傘を校内に持ち込んだのだろう、小さな水溜まりがところどころにできている。
オフホワイトの壁には鞄をこすりつけた跡と思われる黒い汚れがついていた。
それはオレの中で反転し、雨で黒く濡れたアスファルトに残る白い線に変わる。
合格発表の翌日、オレは遼の住むマンションへ向かった。
合格したオレが何を言おうと無駄かもしれない。
でも遼が心配だった。
放っておくことなんてできなかった。
オレが着いた時、マンションの前には人だかりができていた。
嫌な予感がして人を掻き分け見つけたもの ── それは踏み潰された昆虫のような、無残な遼の死体だった。
マンションの五階から飛び降りてアスファルトに叩きつけられた遼は即死だったらしい。
『守の心理学は、僕には全然役にたたなかったね』
オレは遼を救うことができなかった。
遼の心も、体も。
雨の中、市内の寺で行われた葬式に参列した帰り道、オレは白い花束を持って遼のマンションを訪ねた。
遼が落下した近くの樹の下にはすでにたくさんの花が供えられており、濡れたアスファルトには遼が落ちた時の姿をそのままに囲った白い跡がまだ残っていた。
間に合わなくてごめん。
そっと手を合わせたオレは、それでもどうしても涙が出なかった ── 。
── 小さな違和感。
三階と四階の間にある踊り場でオレは立ち止まる。
階段を昇る時に踏み出す足がいつもと逆だったようだ。
いつもはどっちの足から昇り始めていたんだろう。
右足だっただろうか、左足だっただろうか。
意識して考えようとすればするほどわからなくなる。
オレはいつもどうやって階段を昇っていたんだろう、どうやって歩いていたんだろう、どうやって声を出していたんだろう、どうやって呼吸していたんだろう …… 。
いつも無意識のうちに行っていることが、意識した瞬間にできなくなっていく。
身動きがとれない …… 息が … 苦しい …… 。
白木の細い手摺にもたれるように立ちすくんだオレを、後ろにいた生徒がちらりと不審げに見た。
そしてそのまま追い越して昇っていく。
そうだ、それでいい。
話しかけるな、オレに構わないでくれ ──
「島崎くん?」
洗いたてのタオルのようなふんわりした声。山村だった。
「どうしたの、気分悪いの?」
目を合わせてはいけない。
とっさに視線を逸らそうとしたオレよりも、心配そうに首を傾げてオレの目を覗き込んだ山村の方が一瞬早かった。
山村の瞳に映った自分の姿を見た瞬間 ── 呪縛が解けた。
「 … あ …… 」
動ける。
声を出すためにオレは静かに息を吸った。
「いや、大丈夫。居眠りしすぎて頭がぼんやりしてただけ」
肩の上で切り揃えられた黒髪をさらりと揺らし、山村は安心したように明るく笑った。
「ほら、寝ぼけてただけだってさ。急がないとチャイム鳴るよ、花純」
「あ、うん。島崎くんも急いだ方がいいよ」
「ありがとう」
すでに数段先にいた友人に急かされ、山村はパタパタと階段を駆け昇っていった。
── ありがとうって言ったよな、今。
紛れもなく、オレが。
信じられなかった。
オレが他人に向かって『ありがとう』?
何の感謝だというのだろう。
もうすぐチャイムが鳴ることを知らせてくれたことだろうか、呪縛を解くきっかけを与えてくれたことだろうか、 ── 心配して話しかけてくれたこと、だろうか。
最後の考えにオレは愕然とした。
あれだけ拒否していながら、本当は他人に話しかけて欲しかった、ということなのか。
困惑しながらもしっかりとした足取りで戻った教室では落書きされた椅子がオレを待っていた。
砂田の目の前で黙ってそれを消す。
それがオレの義務だった。
── 授業中に夢を見た。
オレは自分の部屋を片づけていた。
押し入れの奥に見慣れない白い箱を発見する。
箱を開けた途端明るい光が部屋中に広がった。
箱の中には手のひらサイズの星。
クリスマスツリーのてっぺんに飾る星のように中央部が少し膨らんでいる。
きらきら輝く星と箱の隙間にはきっちりと塩が詰められていた。
そうだ、星が腐らないように塩漬けにしたんだった。
本来空の上にあるはずの星を地上に留めておくためには常に塩で浄め続けなければ。
しかしこのまま地上に留めておいていいものなのだろうか。
カーテンを開くと窓の外は真っ暗だった。
新月なのだろう。
箱の中にある星が何かを警告するように明滅を始めた。
もう限界なのかもしれない。
これ以上箱の中にしまっておいては星が傷んでしまう。
…… 空に、返そう。
元に戻せば星は元気になるだろう。
オレは箱の中から丁寧に星を取り出し、塩を手で払い落とすと部屋の窓を開けた。
少し湿り気を帯びてひんやりした空気に触れ、星が再び輝きを取り戻す。
オレは手に持った星を窓の外に向かって放り投げた。
星は明るい光を放ちながらそのまま天に昇っていく。
ふと目をずらすと、今まで闇しかなかった夜空に糸のような細い月がかかっていた。