癒し空間ひかりのしずく

光の森

第二章 銀


真っ暗だった。

どの方向を向いても暗闇以外の何も見えない。
たった今通って来たばかりの入口さえ、すでに消え失せていた。

制服姿の私の周りだけがかろうじて消え入るようにぼうっと光っている。
(よど)んだ生ぬるい空気が体にまとわりついて気持ち悪い。

立ち尽くしていても何も状況は変わらない。とにかく移動してみよう。

けれど歩き出そうとした私はいきなり壁にぶつかった。
それは文字どおりの壁で、手で触れて確認してみると私の四方を囲んでいる。
押しても動かないし、引いてみるにもつるりとした硬質の壁には手でつかめる場所はなかった。
どのくらいの高さがあるのかわからないけれど、足場になりそうな突起もないので上から乗り越えることは難しそうだ。

助走をつけて体当たりしようにもそれだけのスペースはない。
仕方なく力いっぱい叩いても蹴っても壁はびくともせず、私の手足が痛んだだけだった。

足元を掘ってみようと壁に手をつきながらそろそろとしゃがみこんでみた。
確かにそこに床らしきものがあって私の体重を支えてはいるのだけれど、手で掘ろうとしても蒸気をつかむように捕えどころがない。

こうなったら歌うしかないわ。もしかしたら超音波で壊れてくれるかもしれない。

私は元気に高校の校歌を歌った。
中学校と小学校の校歌も記憶をたどりながら歌ってみたけれど、超音波を発しない私の声ではやっぱり壊れてくれなかった。

ひょっとして何か呪文を唱えるとか?

そう思った私は、開けゴマからベントラーベントラースペースピープルまで知っている限りの呪文を大声で唱えてみたけれど、もちろん壁は依然としてそこにあった。

そんなことで壊れると本気で思っていたわけじゃないけど、ここまでやってびくともしないのはちょっと悔しい。

あと、試してないのは ── 踊りだ。
楽しそうに踊ってたら壁の向こうの何かが私に興味をもって壁をずらしてくれるかもしれない、と考えてはみたものの、狭くて踊れないということに気づくまでにそう時間はかからなかった。

どうしよう。これじゃドラセナを捜せない。それどころか、私も戻れない。
んー、いきなり死活問題に直面しちゃったな。

でも諦めちゃだめ。きっと何かいい方法があるはず。
自分で決めてここにやって来たんだもの、後悔なんてしない。

「うそつき」

唐突に、声がした。

漆黒の闇の中、ほのかな蒼白い光をまとって浮かび上がったのは私と同じ姿、同じ声の女の子だった。
外見で唯一違うのは私が夏服の白い半袖セーラー服を、彼女が濃紺の長袖セーラー服を着ていることだけ。

私の樹の中に現れた、私と同じ姿の彼女が意味するものは。

「あなたは、私 …… ?」

闇の中の彼女がにっこり笑った。

「そう、私もあなた。
ねえ、本当は怖いんでしょう?
ここに来たことを後悔しているんでしょう?」

「そんなこと」

「ないっていうつもりなら、どうして花純の周りには壁があるの?」

彼女が現れてからも、触ると確かにそこには壁が存在していた。
壁の向こう側にいる彼女が見えるということは、この壁は透明なんだわ。

どうして壁があるのかしら。私はドラセナを捜しに行かなくちゃいけないのに。
その目的を達成するためには、この壁はとても邪魔。

「この壁ってどうやったら動くかあなたならわかる?
さっきからいろいろ試してるんだけど、全然びくともしなくって」

すると彼女はおかしくて仕方がないのを堪えるように小さく笑った。

「その壁は花純が自分で作り出したんだよ。心の闇が怖くて、先に進みたくないから」

私がこの壁を作った?
叩いても蹴っても歌っても呪文を唱えても壊れない強固な壁。
それほどまでに私はこの闇を怖れてるの?

怖くない、大丈夫、と自分に言い聞かせていたけれど、本当は。

「心の中って正直なのねえ」

感心して思わずつぶやいた私に、壁の向こうの彼女は呆れた顔をした。

「花純ってばか?」

「そうかも。教えてくれてありがとう」

くすくす笑って私は答えた。

「どういたしまして。でもそれがわかったところで壁はなくならないよ、花純が闇を怖れている限りはね」

「それじゃ、どうしたらいいの」

「ふふっ、花純ったら本当におばかさん。
知ってたって教えるはずないじゃない。これは私にとってチャンスだもの。
花純に替わって私が表に出てあげるね」

「そんな …… 」

「壁をつくったのは花純だよ。自業自得、でしょ」

彼女は相変わらずにこにこしたままだ。

「大丈夫、ドラセナは私が救け出すし、守くんとみっちゃんは私も大好きだし!
あ、でも朝倉さんはね、大っ嫌い!」

笑顔に惑わされて聞き逃してしまいそうな最後のひとことに私は即座に反応し、握り締めたこぶしで力いっぱい壁を叩いた。

「そんなこと言っちゃだめ!!」

「どうして? 朝倉さんが本気で守くんのことを好きなわけじゃないことくらい、花純にだってわかってるでしょ。
守くんに固執してるのは自分が言い寄って落とせなかった、ただそれだけのため。
今朝だって言ってたじゃない、
『あなたさえいなければ島崎くんも私のものになってたはずなのに』って。

守くんを『もの』扱いするのも許せなければ、その他大勢と一緒にして考えてるのがもっと許せないと思わない?
守くんの人権を全く無視してるんだもの」

私は彼女の言葉に眩暈(めまい)を覚えた。
本当は私も心の中では同じことを考えていたことを知っているから。

でもそれは決して口にしてはいけない言葉だった。
口にした瞬間私はきっと朝倉さんを嫌いになってしまう。友達になれなくなってしまう。

「でも朝倉さんはきっと悪いひとじゃないと思う。
守くんのことについては許せないこともあるけど、いつか友達になって『なっちゃん』って呼びたいもの。
ほら、朝倉さんは名前が菜摘さんだから」

「本当は悪い人じゃない? それなら、朝倉さんのいいところを言ってみて。いくつ挙げられる?」

朝倉さんのいいところ。いいところ …… 。

「 …… 綺麗でスタイルがいい、とか」

「それじゃ朝倉さんの容姿に惑わされて群がる男の子たちと一緒。
結局花純は朝倉さんのことについて何も知らないんじゃない。

── 朝倉さんはかわいそう。
女の子の友達もいないし、守くんには振られるし、誰もわがままを(たしな)めようとしないし。
本当に哀れなひと。

だからって罪悪感と同情から友達になってあげようだなんて、ちょっと態度が大きすぎない?」

「罪悪感と同情ってどういうこと?」

彼女はそんなこともわからないの、とでも言いたげに目を見開いた。

「花純は朝倉さんに罪悪感を抱いてるでしょ。守くんに選ばれちゃってごめんねって。
でもそれは優越感の裏返しでもあるんだよ。守くんに選ばれたのは私なのよってね。

優越感は余裕につながる。だから耐えられるの、朝倉さんの不条理な攻撃に。

かわいそうな朝倉さんに同情してあげることで花純は一段上の高さに自分を押し上げてる。
決して同じ高さで朝倉さんとつきあおうとはしてない。
調子に乗っていい気になって朝倉さんを見下してる。

そんな気持ちでほんとの友達になんてなれるのかな」

「見下してなんかいない!」

「むきになって否定するのはそのことに深く突っ込まれると自分の弱い部分が()き出しにされるからなんだよ。
それを攻撃されたくないから、自分から攻撃的になるの」

違う、と言いかけて私は口を閉ざした。
違う? 本当に?

私はどうして ── 朝倉さんと友達になろうと思ったんだった?

「花純は本当は朝倉さんに対して、どうしてこんなことするんだろうって怒ってる。
どうしてこんなことされなくちゃいけないんだろうって悲しんでる。

その気持ちを打ち消すために朝倉さんに同情してるの。

守くんにふられたかわいそうなひとだからこのくらいは仕方ないって自分を納得させるために。
そうしないと自分が壊れてしまいそうだったから。

── かわいそうな花純」

確かにそれこそが真実だったかもしれない。
だからこそ、私には刺激が強すぎた。

「かわいそう …… 私が …… ?」

私の思考は麻痺していた。
彼女は笑顔を絶やさずに話しかけてくる。優しく、いたわるように。

「花純はどこかでちゃんと気づいてた。
優越感をもっている自分に。朝倉さんに同情している自分に。

だから朝倉さんから攻撃された時に笑いたくなったの。
素直に怒りや悲しみを表に出さずにただ困ったふりをして、その実、朝倉さんを哀れんでいる浅ましい自分を(わら)いたかったの」

「浅ましい、私 …… 」

「そう。浅ましくてかわいそうな花純、自分を護るために作った壁の中で壊れちゃいなさい。
後は私が引き継いであげる」

頭の中が、真っ白になって ── どこかでぱりん、と音がした。

体のバランスを崩した私は前のめりに膝をついてしまう。
手をついていた壁が、消失していた。

「壁が、消えた …… ?」

膝をついたまま呆然とする私を、近寄ってきた彼女が立ち上がらせてくれた。

「やればできるじゃない。大丈夫、みっちゃんのいう意味では花純は壊れてないよ」

「壊れて、ない?」

「朝倉さんのいう意味は違うけどね。
彼女が言いたいのは、花純がちょっとずれてるっていうことなんだと思うけど」

「ずれてるってだけなら気にしなくて大丈夫かな」

「花純程度のずれなら問題ないと思うよ」

なにが起こったのかよくわからないけれど、壁は私が壊したらしい。
呆然とした状態の私を見て彼女は朗らかに笑う。

私は不思議な気持ちで彼女を見つめた。

「私と入れ替わらなくていいの?」

「私が表に出てもみっちゃんや守くんは喜ばないでしょ。
それに私、花純のことも結構気に入ってるんだよ。
自分の作った壁で身動きできなくなるような抜けてるところもあるけどちゃんと強いもの」

偽りのない瞳で彼女は答えた。
あんなことを言ったのは私に壁を壊させるため?

「嫌なことをいっぱい言わせてごめんね。壁を壊すのに協力してくれてありがとう」

「嫌なこと? それは違うわ、私は自分の言いたいことを言っただけだもの。
その意味がわかる? 私が言ったことはそのまま花純の気持ちなんだよ」

「ごめんね」

私は彼女の目を見た。

「私が押し込めてたもやもやした嫌な気持ちは全部あなたが担当してくれていたんでしょう?
これからは楽しい気持ちも嫌な気持ちもうれしい気持ちも悲しい気持ちもみんなよく混ぜて、それからふたりで分担しようね。
どちらかに苦しさやつらさが偏ってしまわないように」

彼女はびっくりしたように目を見開き、そのあと泣きそうな笑顔で私の肩を叩いた。

「そうなってしまったら分担じゃなくて共有っていうんだよ。
…… それは花純と私がひとつになる、ということを意味しているんだけど、花純はそれでいいの?」

「ひとつになる?」

「そう、花純と私はもともとひとつだったんだもの」

「じゃ、元に戻るだけでしょ? あなたが一緒になってくれたらとっても心強い。
でも ── こんな風にふたりでおしゃべりできなくなっちゃうのが残念かな」

へへ、と笑った私に彼女は急に抱きついた。ふわりと石鹸の匂いがする。

「ドラセナを捜して。私はその途中でもう一度花純の前に現れる。
その時こそ ──」

耳元でそうささやいた後、彼女はすうっと闇の中に姿を消してしまった。

「ええっ?」

きょろきょろと辺りを見回してみたけれど彼女の姿はどこにもなく、私はぺたんと座り込んでしまった。


誰かが一緒にいることを体験した後でひとりぼっちになるのは、最初からひとりでいるよりもずっと心細い。
自分がどれだけ彼女に頼っていたかが思い知らされる。

このままじゃいけない、また周りに壁ができてしまう ──。

そういえば、さっきの壁はどうして壊れたのかしら。
頭の中が白くなったことは覚えてるんだけど、その間に私、なにかやったのかな。

冷静に考えれば彼女の言う通り、私は朝倉さんのことを何も知らない。
朝倉さんはかわいそうなんだ、不幸なんだと頭から決めつけて同情したその時から、私は朝倉さんのことを見下していたことになるんだわ。

ほんと、私ったらなにさまのつもりだったのかしら。
みっちゃんだったら、『おう、三橋珠美様だ。()が高い!』ぐらいは言いそうだけど。

そう考えて私はくすくす笑い出した。

そうよね、お友達になるならもっと朝倉さんを知ることが大切だわ。
ドラセナを救けてここから出たら、まずはそこから始めてみよう。
いっぱい、いっぱい、お話ししよう。

── ドラセナ!

そう、私はドラセナを救けに来たんだった。
今は朝倉さんのことよりドラセナを捜すのが先決だったわ。
どうしよう、ただ闇雲に捜しまわってもドラセナを見つけるのは難しそう。

誰にも頼ることはできない。私が考えなくちゃ。
さあ、どうする?

おかしなことに私はその状況を楽しんでいる自分に気がついた。
追いつめられてキレたわけじゃない。
だってまだ、窮地に立ったわけじゃないもの。

金の光が、私を建設的な考え方に導いているのを感じた。
テミス・クレスが私を応援してくれている。

そうよ、私は必ず戻る。大切な人たちのいる世界へ。
諦めちゃだめ、よく考えるの。

ドラセナに続く道はこの闇の中に必ずある。

ただ、見えないだけ。
見えないだけ …… ?

そう思って、はっとした。

見えないんじゃない。
見たくなくて見えないことにしてる?

それ以上進みたくなくて作ってしまった壁のように、この闇は私が見たくないと感じている何かを見えないように隠してくれている?

そう考えた途端、私の中で闇は急に身近なものに感じられた。

確かにさっきからずっと私の周りに闇はあったけれど、物質的な距離ではなく精神的な距離が一気に縮まったように思える。

この暗闇は私の味方。
壁と同じように私を護っていてくれる。

周りの澱んだ空気が清らかな風によってサラサラと音をたてながら流されてゆく。


深呼吸した私の目に(かす)かな蒼白い光が映った。

その光は前方から少しずつ私に近づいて来ている。
今までは見えなかった光だ。

この闇の優しさに気づくこと、それがひとつの『鍵』だったのかもしれない。

光の正体は、深い海の色をした一匹の魚だった。
体長八十センチほどのその魚は流線形の体をしならせて闇の中をすい、と優美に泳ぎ、私を見上げるように止まった。

綺麗な魚。大きくて半透明なヒレを上品に動かしている。
きょん、とした表情が愛らしい。

その頭を撫でようと手を伸ばしかけた途端、魚は突如体を膨らませ始めた。

なっ、なに?

私の目の前で魚の体はどんどん膨らみ、ついに鯨ほどにまで大きくなってしまった。
それどころか、私に向かってぱっくりと大きな口を開いたのだ。

きゃああ、食べられちゃうっ!

思わず私は目をつぶって身を縮ませた。

けれどいつまでたっても食べられる気配はない。
そっと目を開くと魚は口を開けたまま全く動こうとしていなかった。

私を食べようとしたわけじゃないの?
…… 私が勝手にそう思い込んだだけ?

おそるおそる魚を見上げるとちかりと明るい光が目に差し込んだ。
魚の口の中、ずっと奥で輝いている光。

── 道は、この中にあるんだわ!

私は口を開けたままでいる魚の片目の下へ移動した。

「食べられちゃうなんて思ったりしてごめんなさい。
あなたの顎が疲れてしまわないうちに中に入らせてもらうね」

大きくなっても綺麗なヒレを優しく撫でると、魚は(まぶた)のない目で私を見つめた。

スーパーで売ってる魚の充血した目とは違う、何もかもすべてを受け容れることのできる強さをもった気高い目。

そうよね、根本的に違うわ。
スーパーの魚は死んでトレイに入れられてラップで包まれているんだもの。

この魚は、心の中で、生きている。
私の心の中にこんなに凛とした目をもつ生き物がいることがなんだかうれしい。

私はまっすぐその視線を受け止め、もう一度ヒレを撫でて、魚の口の中へ踏み出した。

光に向かって。


魚の中を奥に向かって進むうちに変な臭いが漂ってきた。
何の臭いだろう、すごく嫌な臭い。

最奥の突き当たりに、スポットライトが当たっているようにその部分だけが明るい場所があった。
ぱちぱちとはぜる(たきぎ)の上に大きな鍋がかけられている。異臭はその鍋から発生していた。

くすんだ緑色の液体が(くぐも)った音をたてて沸騰している。
毒の入った青汁としか表現できないような怪しげな液体だ。

それは人魚姫から美しい声を奪った魔女がかき混ぜている得体の知れない濁った毒液を彷彿させた。

これは一体なに?

悪臭に眉をひそめながら鍋の中を覗き込んだ私は、そこに信じられないものを見た。
鍋の底から沸き上がる気泡に混じって、人の手が浮き上がってきたのだ。
その手は大きさから赤ちゃんのものだと推測された。

うそ、この鍋の中に赤ちゃんが入ってるの!?
いやああっ、怖すぎる!!

思わず後ずさりしかけた私の目は、次に浮き上がった小さな足の指をしっかりと捉えていた。

五本ある、まだ溶けてない。
今なら間に合う、救けられるかもしれない!

救出に使えそうな道具は一切なかった。
火傷を覚悟して煮えたぎる鍋の中に入れた手が予想を裏切る肌を刺すような冷たさを感知し、私は反射的に手を引いてしまった。

蒸気があがる毒色の液体は一瞬触れただけで痺れるほどに冷たい。

なんなの、この液体!

それでも私は嫌がる腕を無理矢理鍋に突っ込んだ。

柔らかな手応え。
── 本当に赤ちゃんだ! 生きてる!

浸かったのはほんの少しの間だけだったのに私の腕は痛みを通り越して感覚がなくなりかけていた。
抱き上げた赤ちゃんを落としてしまいそうだったのでしゃがみこんで太股(ふともも)で腕を支える。

裸ん坊の赤ちゃんはあどけない微笑みを浮かべ、だー、とかわいらしい声をあげた。
ぷくぷくした体は温かく、凍りついた私の腕にも徐々に体温が戻ってくる。

良かった、元気だわ。ひと安心。

赤ちゃんはぱっちりと目を見開いて私を凝視している。

こげ茶色の瞳、真っ黒な瞳孔、青みがかった白い強膜。
構成しているひとつひとつの部分がまっさらで無垢だ。

生まれてきた時にはみんなそう。でも成長するうちに少しずつ濁っていくの。
目は心の窓だもの。日々心に鬱積(うっせき)していく醜いものは目にあらわれる。

赤ちゃんの目は純粋な心がそのままあらわれているから澄んでいるんだわ。

じっと赤ちゃんの目を見ていた私はそこから視線が外せなくなっていた。
赤ちゃんの目は静かな吸引力で私を捕えて離さない。

そしてついに、私はその目の中に吸い込まれてしまったのだった。


私の周りを透明な水が大きな渦を描きながら取り巻いていく。
いつしか私はすっかり温かい水の中に呑み込まれ、膝を抱えて丸くなった格好でふわふわと漂っていた。

ばくん ばくん ばくん ばくん

大きな音が規則正しい間隔で響き続けている。
それは胎児になった私の小さな体を震動させるほどの轟音なのに、私はとても安らいでいた。

温かくて気持ちいい。
私の存在はこんなにも優しく護られている。

とても幸せな気分。
このまま眠ってしまいたい。
このままずっと、たゆたっていたい。

うっとりと目を閉じた私の耳に、轟音に混じって小さなオルゴールの音が滑り込んできた。

フィンランディア。

目覚まし時計のメロディーだ。
眠るなって言いたいのかしら …… ?

母の心臓音を打ち消しながら大きくなってくるオルゴールの音は、いつしか荘厳なアカペラの歌声へと変化していった。

ななつの海こえひびけ
はるかの国のひとへ
ふるさとの野にうたえる
わたしの希望こそ
世界のすみまでおなじ
平和へのうたごえ

心の内側から浄化されていくような清らかな旋律。
慈愛に満ちた歌声。

ドラセナのものだと私は直感した。

ドラセナはこの近くにいる。
その歌声が私に届くほど近くに。

ドラセナってどんなひとなんだろう。
── ひとつだけなら私にもわかる。

大切なひと。
森にとっても、テミス・クレスにとっても。

大丈夫、あなたを森に帰してあげる。
私があなたを救けてあげる。
だから森を護ってね。

その時ふとひとつの考えが脳裏を横切った。

── 壊してしまったら?

ドラセナは私の心に深く根を下ろしている。
樹を壊して私の心をなくしてしまったら、ドラセナはすぐに解放されるんじゃないかしら。

あの森が護られるのなら。
守くんやみっちゃんや朝倉さんの樹があるあの光り輝く森が救かるのなら。

私ひとりがいなくなることくらい、大したことじゃない。

繰り返し響き渡るフィンランディア。
自分の心を壊してしまえば、という気持ちはその荘厳な旋律によって増幅されていく。

すべての樹が癒されるといい。
みんなが幸せになれるといいな。

たとえその中に私が含まれなくても ──


どくん!


力強い鼓動が私の胸を打った。
私が、生きている証明。

生きているという、強い主張。

はっとした。

危なかった。間違えるところだったわ。

確かに私が樹を壊せばドラセナは森に戻って銀の光を満たすだろう。
それできっと森は救われる。

けれど私の樹を失ってテミス・クレスは悲しむに違いない。ドラセナも。
そして、私を大切にしてくれている家族や守くんやみっちゃんだって。

誰も悲しませたくない。
私を生かすための大義名分だと言われても構わない。

自分を大切にすることが他の人を幸せにすることだって、きっとある。
私ひとりが犠牲になれば他の人が救われるなんておこがましいことこの上ない。

自分を犠牲にしようと考えた時、私は自らが作り上げた美しい自分の幻影に酔っていたんだわ。
自己犠牲なんて自分への残虐な行為が美しいはずがないのに。

フィンランディアは自殺をほのめかす歌なんかじゃない。
世界中の人たちの平和を祈る、希望の歌だ。

世界中の人たち。
私もその中のひとり。

樹を壊さなくてもドラセナに続く道は必ずある。
そしてドラセナは、もう、すぐ近くにいるのだ。


『絶対に、自分を犠牲にしようとは考えないで下さい。
花純の大切な人たちのことを想って、必ず戻ることができると信じること。
そのことを忘れないで』

そうね、テミス・クレス。強く信じよう。
その気持ちは必ず実現へのバネになる。

私の大切なひとたち。
お父さんもお母さんも大切。
けれどみっちゃんと守くんは誰よりも特別だった。


中学生の時からの親友、みっちゃん。
名前が珠美(たまみ)ちゃんだから『たまちゃん』って呼ぼうとしたら怒られたっけ。
その呼び名には嫌な思い出があるようなので、名字の三橋から『みっちゃん』になったのだった。

すごく運動神経がいいだけじゃなくて他人をとても大切にできるひと。
べたべたに甘やかすのではなく、突き放す優しさもあると教えてくれたひと。

でも私はみっちゃんに甘やかされてるんだよね。
しかもべたべたに。

生徒会副会長のみっちゃんには彼がいる。
ひとつ年上の生徒会長さんだ。
そのひとと一緒の時のみっちゃんは私には絶対見せない頼りなさそうな表情をすることがある。

私が頼りないから、私の前では豪胆なみっちゃんでいてくれてるんだよね。

みっちゃんが大好き。
みっちゃんに護られてばかりじゃなく、私もみっちゃんを護りたい。

ぽわ、と胸が温かくなる。
── 大切な、大切なみっちゃん。


そして、いつだって私の話を真面目に聞いてくれて丁寧に答えてくれる守くん。

去年の冬。
牡丹雪が空からぼとぼと落ちてくる学校からの帰り道、手袋を教室に置き忘れてきた私はよりにもよって凍結した路面で滑って転んでしまったのだった。

痛いし冷たいし恥ずかしいし。

その時助け起こしてくれたのが当時同じクラスだった守くん。
何度か話したことはあったけど、『授業中に居眠りしていてしょっちゅう注意される人』という認識しかもっていなかった私に彼はとても親切で、真っ赤にかじかんだ私の手を見て自分のカイロを持たせてくれた上に、手が温まるまでと鞄まで持ってくれた。

お礼を言おうと守くんの目を見た時、私は思わず口走っていたのだった。

「島崎くんって、すごく綺麗な目!」

「現代文の時間にずっと寝てたから目の疲れがとれたのかな」

私の唐突な発言に守くんは苦笑していた。
それまで気づかなかったあまりにも綺麗な守くんの目を見るのが恥ずかしくて、私は思わず俯いてしまったのだった。

その澄んだ瞳でずっと私のことを見ていたんだと聞かされた時には驚いたけれどすごくうれしかった。
きっと綺麗な目に気づいてしまった時から、私は守くんのことを好きになっていたんだと思う。

澄んだ綺麗な目。
自分の中の汚い部分を見透かされてしまいそうで初めはちょっと怖かった。
でも今では、その綺麗な目に私の姿が映るのがうれしい。
私までもが綺麗になっていくような気がするから。

守くんの目が綺麗なのは綺麗なものしか見ていないからじゃない。
きっと汚れたものを心の中で綺麗なものに創り変える力があるんだわ。

だって私を映しても、守くんの目は濁らなかったもの!

── 大切な、大切な守くん。
守くんが、すき。だいすき。

いとおしさがこみ上げてくる。体が熱い。

私はつい最近、この感覚を経験したことに気づいていた。
今朝、ドラセナがテミス・クレスを見つけた時だ。
その時の感覚と同じ。

自分じゃない誰かを好きになるってすごいエネルギーなんだね。
このエネルギーはどこから生まれてくるんだろう。

体の、奥。
一番、深いところ。

── 根、だわ。

唐突にそう思った。

この噴出するような激しい感情が湧き起こる源、それが、きっと、根。
そしてドラセナはそこにいる!


かっ、と見開いた私の目に真っ赤な炎が見えた。
私はもう、羊水に浮かんでいる胎児じゃない。

あらゆるものを焼き尽くそうとする激烈な炎の中に、私はいた。

熱い。

この熱さは炎の熱によるもの?
それとも私の体の奥から突き上げてくる激情のせい?

ううん、両方だ。
どちらも私の心が生み出した同じものだから。

炎の中をゆっくりと落ちていく私の前に一羽の光り輝く美しい鳥が現れた。
その鳥は炎を圧倒する神々しいまでの光を放ちながら人へと姿を変えていく。

それは闇に消えてしまったもうひとりの私だった。

「ここまでよく頑張ったね」

「よかった、また会えて!」

彼女にはどうしても聞いておきたいことがあった。

「教えて欲しいの。どうして壁は壊れたの? あの時、一体何が起こったの?」

彼女は優しい眼差しで私を見つめた。

「花純は怒りの感情をいい意味での闘争心へと昇華させることができるの。
他の人には真似できないくらい手際よく速やかにね。

だから花純は壊れない。マイナスの感情を抑えつけずにプラスのエネルギーに作り変えてしまえるから。
私の挑発に乗せられた花純の、闘争心へと変わっていく怒りのエネルギーが闇を怖がる気持ちを上回ったから、だから壁は壊れたんだよ」

私はあの時 ── 頭の中が真っ白になるくらい、怒ってたの?

一体誰に対して怒ってたんだろう。

私を追いつめるようなことを言ったもうひとりの私に?
私にさまざまな嫌がらせをしてきた朝倉さんに?
それとも、朝倉さんを見下していた自分自身に?

「花純、『朝倉さんなんて大っ嫌い』って言ってみて」

「え?」

「そのひとことで、花純は朝倉さんとの新しい関係を作ることができるようになるよ。
今までのわだかまりを一度全部吐き出して、自分の中にある朝倉さんの存在を壊すの。
その後でまた花純の中に新しい朝倉さんの存在を作っていけばいい。
同情からじゃなく対等につきあえる友達に、花純はなりたいんでしょう?」

「うん、なりたい」

うなずいた私の目の前で、彼女は再び美しい鳥の姿になった。
炎の中でその黒い目が私を促している。

言いなさい、と。

私はすうっと息を吸った。

「朝倉さんなんて ── だいっきらい!!」

そう言い終わるのと同時に光の軌跡を描きながら突進してきた鳥が私の胸にぶつかり、そのまま体の中へ入り込んできた。

体がちぎれてしまいそうな凄まじい衝撃。
跳ね飛ばされた私の周りで紅蓮の炎が一層激しく渦を巻いて燃え上がった。

この炎は私の守くんへの想い、みっちゃんへの想い、朝倉さんへの想い、すべてが混ざったもの。
── 逆かな。みんなへの想いはこの炎から生じているのかもしれない。

愛しさも憎悪も悲しみも優しさも、この同じ炎から生まれる。
元はこの炎ただひとつだけ。

私のすべての感情の源。

それがこの猛々しく荒れ狂う炎なんだわ。


全身の血液が沸騰しそうな熱さに体が悲鳴を上げている。
手足の感覚などすでにない。
体の外側からも内側からも同時にどろどろと溶け崩れてしまいそう。

それでも私は不思議と苦痛を感じなかった。
むしろ体の中に滑り込んでは出て行くさまざまな感情に直に触れられることがうれしかった。

すべての感情がいとおしかった。

── 許せる、と思った。

私に数々の理不尽な嫌がらせをした朝倉さんを。
そして朝倉さんを心の底で見下していた浅ましい自分自身さえも。

他人を許すということは、きっと他人を憎悪していた自分をも許すということなんだわ。

ふっと気持ちが軽くなったような気がする。
この炎には浄化の作用もあるのかもしれなかった。

その時きっと私は笑っていたに違いない。

尽きることなくほとばしる狂おしいほどの感情の嵐が私の存在のすべてだった。
嵐は止むどころか殺人的なまでに激しくなっていく。

思考することさえも困難になったその時。


─── 一面に、銀の光が広がった。

月の光を思わせる優しくやわらかな光の中心に、ひとりの少女が立っている。
ぼんやりした頭がその姿をなんとか認識した。

「ドラセナ …… ?」

少女は可憐な微笑みを浮かべてうなずいた。

「ここが私の張った根の最深部です。
力を分けてもらっただけではなく、動けなくなった私を救けてくれて本当にありがとう」

鈴が転がるような音色の声は、まさしくフィンランディアを歌っていたあの声だった。

この少女が心の奥底を照らす銀の光の司。

この光なら人々は見つけられるかもしれない。
心の病を治癒するための『鍵』を。

金の光では強すぎる。隠された真実をあまりにも明るく照らし出してしまうから。
それではかえって人は心の闇を深くするだろう、もっと完全に隠すために。

けれど、この穏やかな銀の光なら素直に受け容れられる。
そう、きっと。

「帰りましょう、森へ」

涼やかなドラセナの声。

うん、帰る。

優美な仕種でドラセナは私の前に白い腕を差し伸べた。
その手をとった次の瞬間 ── 私は樹の外にいたのだった。


森は劇的な変化を起こしていた。

天に向かって差し出されたドラセナの細い両手に金の光が凝縮され、直視できないほど眩しい光の球ができている。
両腕で慈しむように抱きしめた、ドラセナの小さな体から聖なる銀の光の粒子が飛散し、地中へと染み込んでいった。

樹々が根元から姿を変える。

無機的な乳白色のガラスからしっとりとした光沢をもつ真珠へと。
その光沢は、弱いながらも樹自体が放っている光によるものだった。

アコヤ貝の中で大切に育まれる真珠。
この森の中で大切に育まれてきた樹々は銀の光を受けてその本当の姿を取り戻したのだ。

シャンシャラーン
シャララーン

澄んだ音色が力強く響き渡る。
森の美しさは以前の比ではない。
圧倒されるような神気あふれる美を目の当たりにして私は頬を濡らしていた。

「おかえり、花純。そして、ありがとう」

テミス・クレスが温かい指先で私の涙を拭ってくれる。
その端麗な顔立ちの中で最も印象的な優しいエメラルドグリーンの瞳を見て、やっと私は実感した。

ああ、私、戻ってきたんだ、この森に。
戻れたんだ、ドラセナを連れて。

急に力が抜けて私は白い土の上に座り込んでしまった。

「花純、見て」

ドラセナが指したのは、私の後ろにある、私の樹だった。
…… すごいことになっている。

振り返ってみると、それは天高くという域を越えて天を貫く大樹に成長していた。
樹皮は銀の混じった淡いオレンジ色の光沢を放っている。

「地上の目に見える部分だけが成長するのでは樹は倒れてしまいます。
見えない根が地中深くにしっかりとした基礎を築いているからこそ、花純の樹は安定しているのですよ」

テミス・クレスの言葉に私は深くうなずいた。

優しい闇が、気高い目の魚が、無垢な赤ちゃんが、激しい炎が、フィンランディアの流れる私の樹の心強い(いしずえ)になってくれている。

「他の樹も早く元気になるといい。
早く、『鍵』を見つけられるといいね」

私がそう言うと、ドラセナが微笑んだ。

「大丈夫よ。花純が心の闇の優しさに気づいたように、他の人だってきっと『鍵』を見つけ出せる。
それに、ひとつの『鍵』が解決する問題はひとつじゃない。
その『鍵』を応用していくつもの問題を解決するための思考力を、金の光が育ててくれるわ。
そして樹は病を克服して大きく成長するのよ」

金の光、という言葉を使った時、ドラセナはアメジスト色の瞳でテミス・クレスを見上げた。
とてもいとおしそうな眼差しで。

テミス・クレスもドラセナに同じ眼差しを返している。

ドラセナを救け出せて本当によかった。

テミス・クレスとドラセナ・テランセラ。
ふたりは離れちゃいけないんだわ。
ふたりがもつ力の特性を抜きにしても。

── 守くんに、会いたくなっちゃったな。
私も、私の場所に帰ろう。

でもその前に確認しておきたいことがあった。

「ここって、私の夢の中なのよね?」

「そう、花純の夢の中です。
けれども、この森は本当にあるのです。
夢はあらゆる場所につながっているのですよ」

微笑むテミス・クレスの穏やかな表情。
清らかな笑顔で隣にたたずむドラセナ。
ここは、もう、大丈夫。

あとは私たちが自分で頑張るしかないの。

私は満ち足りた気持ちで静かに瞼を閉じた。



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