光の森
第三章 紫
目覚めるとそこに守くんがいた。
「あれ、守くんだ」
「あれ、じゃないだろ」
ここは保健室だ。睡魔に襲われた後、私の体はずっとここで寝ていたらしい。
「授業中にいきなり椅子から転げ落ちたまま眠り続けてたんだぞ。
先生は寝不足だろうって言ってたけど、あまりにも爆睡してるから落ちた時に頭でも打ったんじゃないかって心配してたんだ」
椅子から落ちた …… 。
睡魔はずいぶん派手に私を連れ去ってくれたみたいね。
「ずっと、ついててくれたの?」
「授業中は追い出されてたから休み時間ごとに、ね。
三橋もいたんだけど会議があるらしくて生徒会室に行ってる。ちなみに今は放課後」
「私、そんなに眠ってたんだ …… 。
付き添っててくれてありがとう。先生は?」
「職員室。花純の目が覚めたら連れて帰っていいって。
── ほんと、キスでもしなきゃ起きないかと思った」
「え?」
ぽかんとした私に守くんはいつもの真面目な表情で笑った。
「眠り姫は王子様のキスで目覚めると相場が決まってるじゃないか」
「誰が王子様?」
「 …… 自分が眠り姫っていうところに特に疑問はないんだな」
「あ、そっか。失礼しました」
ぺこりと守くんに頭を下げ、ふふっと笑いながら私は言葉を続けた。
「じゃ、もっと眠ってればよかったね。惜しいことしちゃった」
「本当にそう思う?」
お互いの視線が合ったままの、沈黙。
私の肩に守くんの手が置かれた。
綺麗な瞳が至近距離で私を映している。
目を閉じた私の唇に守くんの唇が重なった。
とても優しく、柔らかく、温かく。
そのあまりの心地よさに力が抜けて後ろに倒れそうになった私の背中を慌てて守くんが支えた。
「やっと起きたのに壁に頭ぶつけて昏睡状態になったらどうするんだ」
「そしたらまた王子様のキスで起こしてもらうからいいんだもん」
にっこり笑って答えた私に守くんは一瞬絶句し、がしっと私の手をつかんだ。
「帰ろう。この淫靡な空間で、状況に流されてしまいそうな自分が怖い」
初めて聞く言葉に私は首を傾げた。
『いんび』ってどういう意味だろう。
でもきっと守くんのことだから、『みどりのくろかみ』みたいに素敵な意味だよね。
家に帰ったら調べてみよう。
守くんに手を引かれたまま、私は保健室を出た。
生徒玄関に朝倉さんが立っていた。
華道部が生けた花の隣にぽつんとひとりで。
ガラスケースの中の極楽鳥花は鮮烈な美少女朝倉さんのイメージにぴったりで、生徒玄関のその一角だけが別の空間のように華やかだった。
「ああら、やっとお目覚め?」
私が反応する前に、守くんが私をかばうように前に出た。
「朝倉」
「なあに、島崎くん。やっと私の魅力に気がついた?」
目を細めて朝倉さんが笑う。同い年とは思えないほど色っぽい。
「嫌がらせならオレに直接すればいい。花純には関係ないんだ。花純に絡むのはもうやめて欲しい」
静かに、でも力強く守くんはそう言った。
朝倉さんは唇を噛んで横を向く。
けれど、その横顔は明らかに戸惑っていた。
…… 違ったら怒られるかもしれないけど。
「私を心配して待っててくれたの?」
「そっ、そんなはずあるわけないでしょっ!!」
守くんの横に進み出てそう言った私に、朝倉さんは顔を真っ赤にして反論した。
よかった、間違ってなかったみたい。
「私はただ、山村さんが今朝のことで思いつめて脳の血管でも切れたんじゃないかと …… 教科書を投げつけたのはやりすぎたかなって …… 」
だんだんと語尾が消え入るような話し方だった。
自然と私の顔に笑みが浮かぶ。
「ありがとう」
「なによっ! 山村さんがいつまでも起きてこないからいけないんだからねっ!!」
「成長したじゃん、朝倉」
ひゅう、と口笛でも吹きそうな口振りのみっちゃんが書類を抱えて立っていた。
「愉快な場面に出くわしちゃったな。ナイスタイミング」
朝倉さんのきつい目線をものともせず、みっちゃんは楽しそうにみんなの顔を見回した。
「みっちゃん、付き添ってくれてたんだって? 忙しいのにごめんね、ありがとう」
「なにを言う。あたしたち友達だもん、当然のことだよ」
「なんか私、眠ってただけみたい …… 」
「考えることがいっぱいあって頭が余分な情報をシャットアウトしたかったんだと思うよ。
永眠じゃなくてよかったね」
「ほんとだねー」
私とみっちゃんはほわんと笑い合った。
「あのね、みっちゃん、私やっぱり朝倉さんともお友達になりたい」
「はぁ!?」
素っ頓狂な声を上げたのは朝倉さんだった。
「もっと朝倉さんのこと知りたいの。お友達になって欲しいな」
「なに言ってるの? 山村さん、完全に壊れちゃったんじゃない?」
「ううん、私壊れてなかったよ。ちょっとずれてるだけなんだって。ね、だめ?」
朝倉さんの目を覗き込むように見上げると彼女はうっ、と言葉に詰まってしまった。
「 …… 花純の勝ちだな、あの表情にノーと言えるヤツはなかなかいない。
あたしもあれで落とされたんだよねえ」
「保護欲を掻きたてられる無力な小動物のような目かと思えば、他人の視線をそのままの強さで弾き返す鏡だったりもする。 全く見ていて飽きないよ」
「お、わかってるじゃん、島崎」
「入学してからずっと見てたからね」
「それはストーカー発言かい?」
「オレがストーカーだったら、とっくに三橋にぼこぼこにされてるって」
「そりゃそうだ」
みっちゃんと守くんがなにやらこそこそと話し込んでいたけれど、私は朝倉さんの返事の方が気になって彼女の顔をずっと見つめていた。
「 …… 好きにすれば」
ぷい、と視線を外して、朝倉さんは小さくつぶやいた。
「ありがとう!!」
スキップしながら歌でも口ずさみたい気持ちで私はぎゅうっと鞄を抱きしめた。
朝倉さんの隣の極楽鳥花。
極彩色の鳥が飛んでいる姿に似たその花は、炎の中に現れたもうひとりの私を思い起こさせた。
あなたのおかげで私、朝倉さんとお友達になれたよ。
いろいろ教えてくれてありがとう ──。
「ごめん、朝倉。オレ勘違いしてひどいこと言った」
守くんがむくれた顔の朝倉さんに謝っている。
「守くんはもうひとつ勘違いしてるよ」
隣に立つ守くんの腕をつつく。
「私に関係ないなんて言っちゃだめ。
守くんと私はつきあってるんだから、私が無関係なわけないでしょう」
守くんはふっと目を細め、微笑んだ。
「そうだな。ごめん、花純」
「でも ── かばってくれてありがとう!」
その様子を見ていた朝倉さんが大げさにため息をついた。
「見てるこっちが恥ずかしくなるわ、馬鹿馬鹿しいったらありゃしない。
なんなのよ、その『ありがとう』の嵐は」
「え? だって、『ありがとう』と『ごめんなさい』はなまものだから新鮮なうちにすぐ言わないと。
時期を逃したら言えなくなっちゃうよ?」
「── 山村さんって変な人」
「うん、よく言われる!」
「 …… 私、帰るわ」
私がにっこり笑って返事をすると、朝倉さんは疲れたようにふらふらと靴を履き替えて玄関から出て行こうとした。
「また明日ね、『なっちゃん』!!」
すってん。
校内ナンバーワンの美少女が派手にこけた。
「眠ってる間に何をどう考えたのかは知らないけど、ずいぶんパワーアップしたもんだ。
向かうところ敵なしだねえ」
みっちゃんが感心したようにつぶやいた。
傾き始めた太陽が朱色の混じった光を投げかけている。
その光を受けて、通りがかった民家の庭先に咲いているレンゲツツジが燃え立つような緋色に染まっていた。
どこからか煮物のいい匂いが漂ってくる。
そうだ、私、お昼にお弁当食べてない。おなかすいたー、帰ったらなに食べようかな。
…… 違う違う、そうじゃなくて。守くんに、私が見た夢の話を聞いてもらおうと思ったんだった。
守くんにならあの森の雰囲気を感じ取ってもらえるかもしれない。
私が夢の内容を話している間、守くんは笑い飛ばさず静かに聞いていてくれた。
「ガラスの樹が真珠の樹に、か。じゃ、酸性雨でも降らない限り問題ないな」
「守くん、それちょっとシュールすぎる …… 」
ダリの絵のように、ぐにゃりどろりずるりと溶けた真珠の樹が容易に頭に浮かんだ。
いやだ、そんな森。想像できてしまう自分もいやだ。
「大丈夫だよ、そんな聖域に酸性雨が降る頃には現実の世界じゃもっと凄まじいことが起きてるはずだから」
そんなの、もっといやだー。
「それのどこが大丈夫なのー。もう、そんなひどいことを言うのはこの口ねっ!」
私は守くんの口の端をつまもうと手を伸ばしかけて、止めた。
ひどいことを言ったのもこの口だけど、この口が、この口が、さっき私の唇に …… 。
守くんは躊躇した私の手をするりと避けて笑った。
「それにしてもよくそんな大変なこと簡単に引き受けたよな。
まあ、花純のことだからあまり深く考えずに、レッツゴーくらいのノリで樹の中に入ったんだろうけど」
さすが守くん、ご明察。だけどそれだけじゃないもの。
私は薄い胸を精一杯張って答えた。
「ほんとはね、絶対大丈夫だって自信があったの。
私の心の中だもの、私がなんとかできないわけがないって、そう思ったの」
守くんはそう言った私の顔をじっと見つめた。
「今朝、花純と紫色の話、したよな。自己治癒力のひとつじゃないかって」
「うん」
私は自分の左腕を見た。
ぶつけて赤くなっていた部分はやっぱり紫色になっている。そして黄色くなって消えていくのよね。
紫は自分を癒す色。
自分で自分を癒そうとするから、打撲した肌は一度紫色になるのかもしれない。
「紫が心のバランスをとる癒しの色だとすれば、癒していく過程で自分の心の中で衝突している感情を見つけることが必要になる。
それは『憂鬱』だし『不安』を伴うけど、それを乗り越えると心は『癒』されるんじゃないかな。
その過程があるからこそ『高貴』で『神秘的』な色なんだと思う。
ってここまで言ったらこじつけに近いか」
苦笑している守くんに、私は慌ててぶんぶんと首を横に振った。
「花純が眠ってる間に三橋とも話してたんだけど、花純って滅多に怒らないよな。
少なくともオレと三橋は花純が怒るところを見たことがない。
それは怒りたくなるくらい嫌なことがないわけじゃなくて、花純にはその嫌なことを冷静に見つめて分解していく力があるんじゃないかと思うんだ」
「ただぼーっとしてたとか、人の話を聞いていないとかそういうことじゃなくて?」
「それもあるかもしれないけど」
守くんはやわらかく笑って話を続けた。
「表にあらわれなくても花純の中には確かにそういう怒りとか憤りの感情があって、それを他人に向ける代わりに自分に向けて、自分の中で処理することができるんだと思う。
だから言い換えればきっと花純はいつでも自分と戦ってるんだ。
自分の中の『憂鬱』や『不安』を『癒し』に変えるために」
そういうことができているのかどうかはわからないけど……ああ、もうひとりの私にも言われたっけ、怒りを闘争心に昇華させるって。
今思えば、なっちゃんと友達になろうとしていたのは闘争心の裏返しだったのかもしれない。
友達にすることでなっちゃんを克服しようと意地になっていたのかも。
ごめんね、なっちゃん。今は違うからね。
「それは他人に迷惑をかけないということではとても美徳のように思えるし、花純本人の心の強さの証明だと思う。
『癒し』っていう紫の最終段階をクリアして、すでに花純は『神秘』の域に達してるよ」
「神秘?」
自分を指さして尋ねた私の頭に微笑みながらぽんと手を載せた守くんは、私がいつもするように目を覗き込んで言葉を続けた。
「でも、オレはもっとそういうネガティブな感情を外に出してもいいと思うな。
ひとりで戦うことも時には必要かもしれないけど、周りにいる人たちだって花純の力になりたいと思ってる。
三橋もオレも、ね。
確かに花純は強いと思う。
でもずっと手を差し出して待ってるのにその手をとろうとしてもらえないのは、結構寂しいものがあるよ。
もっと頼ってくれたら、って思う」
── 呼吸が、止まるかと思った。
その時突然、保育所の頃の出来事が私の頭の中に浮かび上がったのだ。
あの日はみんなで折り紙のチューリップを折ることになっていた。
私に配られたのは大好きなピンク色の折り紙。
ピンク色のチューリップを作れる!とにこにこしていた私の隣で、「いいな」という声がした。
彼女の前には紫色の折り紙。
「あたしもピンクがほしかったな」
周りには私のほかにもピンク色の折り紙を手にしている子がいた。
先生に言えば、新しい折り紙セットの中からピンク色を出してくれるかもしれない。
でもその時の私には、ピンク色の折り紙を与えられた他の子に話しかけることも、先生に訊いてみることも、彼女にそれを提案することもできなかった。
『いや』『ダメ』と言われるのが怖かったから。
私が本当に好きなのはピンクだったけれど。
「わたし、むらさきすきなの。とりかえっこしよう?」
今これから紫を好きになれば、嘘にはならない。
言ったことを「本当」にすれば、言ったことは「本当」になるのだから。
なぜ紫色を好きなのか、そのきっかけが何だったのか、考えたことは幾度もあったのにずっと思い出せなかった過去の記憶。
思い出せなかったんじゃない。
自分で心の闇の中に隠した記憶を、思い出したくなかったから思い出そうとしなかっただけ。
闇の優しさに甘えて、本当は見えていたのに見えていないふりをしていただけ。
それをどうしていきなり思い出したのか今の私ならわかる。心が成長したからだ。
今の私なら過去に沈めてしまった気持ちをまっすぐに認めることができる。
── そう、私は自分が傷つくのが嫌だったの。助けを求めて拒絶されることが怖かったの。
紫色の折り紙を手にしたのは偶然か必然かわからないけれど、紫は確かに私の心を癒し続けてきてくれたのだった。
でも、保育所の頃と違って今は守くんやみっちゃんがいる。
私が大切に想うひとたちだって私を大切に想ってくれている。
ありのままの気持ちをさらけだして、もっと感情のままにふるまっても、それでも守くんやみっちゃんは私を受け止めてくれる。
更に、これからはなっちゃんだっていてくれる。
たったそれだけのことに気づけないほど、私は自分しか見えていなかった。
「まあ、これは花純にだから言えることで、他の奴にはもっと自分でなんとかしろって言いたいけどね」
照れた表情で頭をかく守くん。
『鍵』は自分の中だけにあるんじゃない。
私は今、確かに守くんから『鍵』を受け取った。
光の森にある私の樹が澄んだ音をたてているのがわかる。
…… あれ以上成長して大丈夫なのかしら。
大丈夫よね、問題を解決して基礎が固まるから、樹は大きく成長するんだもの。
私は隣に立つ守くんの手をそっと握って、まっすぐにその綺麗な瞳を見た。
言葉ではなく瞳に込めた『ありがとう』を読み取って、守くんは私の手をしっかり握り返してくれる。
うれしくて、ちょっとくすぐったい。
守くんのことをますます好きになっていく自分がいとおしかった。
守くんはいつも私が立つ側とは反対の手に鞄を持っている。
ずっと私のために片手を空けて、私から手を伸ばすのを待っていてくれたのかもしれない ──。
夕焼けの朱金の光を正面に受けながら、私は後ろに長く伸びている黒い影のことを思った。
きっと影は心の中と同じ深さの闇色をしている。
手をつないだふたりの影はひとつになって私たちのすぐ後ろを一緒についてきているだろう。
これからの私たちを優しく見守るために。