光の森
第一章 金
あふれる光の中、私はただひとり空に浮かんでいた。
眼下にはぼんやりとかすんだ地平線の果てまでも続く金色の森。
静かに、ゆっくりと高度を下げてみる。
ガラス細工のような森だった。
まばゆい光に包まれた樹々は触れるだけで砕け散ってしまいそうなくらい繊細で ── だからこそ、美しい。
シャンシャン …… シャラン ……
シャン ……
シャララン ……
金属が触れ合うような音が聞こえてくる。
吸い込まれそうなくらいに澄んだ音色だ。
あちこちから聞こえてくるその音は、重なり、響き合いながら精神を聖らかな高みへと誘う。
それは森の樹々が成長する音だった。
幹と枝だけで葉も花もない丸裸の樹はどれもが無機的で、生きているもの特有のぬくもりが全く感じられない。
それでも、樹々は生きている。
清らかな音をたてながら少しずつ成長を重ねているのだ。
凹凸のない滑らかな乳白色の樹皮は森全体を覆う金色の光を受け、それ自体が光を放っているかのように輝いている。
ピキ ──── ン
樹々の間に降り立った私のすぐ近くで、それまでとは異質な張り詰めた音が聞こえた。
音がした方向へ目を向けると、そこには小さく隆起した乳白色の塊ができている。
これは、樹の芽だ。
新しい心の芽生え。
この森には人の心の数だけ樹がある。
その高さ、太さ、枝振り、色、あらゆる姿態が人の心の状態をあらわしているのだ。
折れてしまいそうな細い樹、不自然に捩れた枝をもつ樹、今にも倒れそうに傾いている樹、根元が微妙に青みを帯びている樹 ──
程度の差こそあるものの、多くの樹が心を病んでいることを示している。
明るすぎる光によってそれらの樹々も光を発しているように見えてはいるけれど、それは反射しているだけで決して自らが輝いているわけではない。
美しいけれど病んでいる森。
ガラス細工のように繊細で脆い人の心。
生まれたばかりの小さな芽が、健やかに育ってくれればいいけれど。
シャラーン ……
シャン ……
樹は成長している。とてもなだらかに、ゆっくりと。
心を蝕む病も静かに、深く進行してゆく。
だから。
早く戻らなければ。早く止めなければ。
気持ちばかりが焦る中、ふと視線を上げたところにひとりの青年が立っていた。
豊かな黄金の髪も、優しい光をたたえたエメラルドグリーンの瞳も、静かに微笑むその柔和な表情も、すべてが懐かしい。
そして ── いとおしく、せつない。
不意に視界が歪んだのは昂ぶる気持ちを抑えきれずにあふれだした涙のせいだった。
「迎えに来ました」
澄んだ透明な優しい声。穏やかな響き。
「テミス・クレス……」
私の口が彼の名を紡ぐ。金の光の司。私の大切なパートナー。
「潤いをなくした心には『鍵』を見つけることすらできない。一刻も早くドラセナの銀の光が必要なのです」
ドラセナ・テランセラ、それが私の名。銀の光の司。
けれど。
「わかってる。でも、ここから動けないの……」
やっと絞り出した悲痛な声を聞いて、テミス・クレスは温かい大きな手で私の頬を包み込み、額に軽く唇を押し当てた。
「強硬手段をとります。 ── もう、時間がない!!」
「ひゃあああ」
どんがらがっしゃん。
「いたいー」
強かに打った左腕をさすりながら体を起こす。
なんて迫力のある夢なの、びっくりしてベッドから落ちちゃったじゃない。
夢の中であれだけ時間がないって強調されたということは、ひょっとしたら私、寝坊しちゃった?
慌てて目覚し時計を見ると金色の針は六時四十五分をさしている。
大丈夫、むしろいつもより五分早いくらいだ。
カーテンを開くと眩しい陽射しが目に飛び込んでくる。
あの森を包んでいた光はもっと容赦なく照りつける感じだったな。
窓辺でぼーっと夢を反芻していた私は目覚し時計のオルゴールの音で我に返った。
六時五十分、定刻に流れ始めたフィンランディア。
私、山村花純の朝はこの美しいメロディーから始まる。
オルゴールを止めた私はぱたぱたと支度を整え始めた。
今日から夏服だ。
梅雨のないこの地域では半袖の白いセーラー服を吹き抜ける風はとても爽やかで、小学生の頃、夏休みにラジオ体操の会場へ向かう途中すれ違った早朝の風とよく似ていた。
角を曲がったところに公園の入口がある。
この季節、公園の樹々や花壇は壮観だ。
桜前線の訪れがかなり遅いため、五月に梅と桜とライラックが咲き揃い、そこにチューリップや水仙、ムスカリが彩りを加える。それからひと月ほど遅れて藤や牡丹が開花し、プランターでは可憐な鈴蘭が毒を隠しながら芳香を放つ。
こんなに鮮やかな風景がフェンス越しにも見えるのに、道を行く人々はそれが目に映っていないかのようにまっすぐ前を見て忙しそうに歩き去るだけだ。
私は人の流れから外れて公園に入り芝生の中に敷かれた白い小道を歩き出した。
クレマチスの蔦が絡まるアーチをくぐると、満開の藤棚の下にあるベンチで守くんが本を読みながら私を待っていた。
真っ白な半袖ワイシャツにはアイロンがぴしっとかかっている。
私の気配を感じたのか守くんが本から顔を上げた。
「おはよう、花純」
「守くん、おはよう」
読んでいた本を鞄につめて立ち上がった守くんの額で棚から下がった白い藤の花が一房ぱさりと音をたて、ほのかに酸味のある香りが広がった。
守くんは熟れた葡萄のような肉厚の花の房を軽く手で持ち上げて、じっと見つめている。
「いつも思うんだけど、なんかこの花、食ったらうまそうだよな」
「んー、食べたことないからわからないけど、確かにジューシーな感じはするかな。挑戦してみる?」
私が答えると守くんはちょっと考え込んで、静かに首を横に振った。
「せっかく綺麗に咲いてるのはオレに食われるためじゃないと思うから、やめとく」
「賢明な選択」
くすくす笑って私は守くんの背中を押した。
「行きましょ」
「おう」
守くんはひょろりと背が高い。外見に華やかさはないものの、とても澄んだ目をしている。
近視なので、授業中眠っていない時には眼鏡をかける。
もともと知性を感じさせる顔立ちだから眼鏡はよく似合うんだけど、私は眼鏡をかけていない方が好きだ。
レンズを通さずに直接守くんの目を見たいもの。
彼とのおつきあいが始まってからそろそろ半年が過ぎようとしていた。
「ん? どうしたんだ、これ」
守くんがいきなり私の左腕をつかんだ。
「あっ、それね、今朝ベッドから落ちた時にぶつけたみたい。あれ、ずいぶん赤くなってる」
「ベッドから落ちた?」
「いつも寝相が悪いわけじゃないよ。今日は夢の中の人にすごい迫力で、時間がない!って言われてびっくりして落ちちゃっただけだもの」
守くんは笑いをこらえながら私の腕をそっと離した。
「それはよっぽど驚いたんだな」
「うん。もう本当にびっくりした……でもね、綺麗な夢だったんだよ」
「花純が言うならそうなんだろ」
「うん!」
他の人が言ったなら投げ遣りに聞こえそうなその言葉も、守くんが言うととても思いやりに満ちた響きが感じられる。
私はうれしくなってつい笑顔になってしまった。
「それ、痛まないのか?」
守くんが私の左腕の赤くなった部分をちらりと見た。
「ぶつけた時は痛かったけど今は平気」
「ならいいけど。でも後で紫色になって目立つぞ。花純は色白いし、今日から半袖だし」
「大丈夫! 私、紫色好きだから」
「いや、そういう問題じゃなくて……」
胸を張って答えた私に、守くんは困った顔でつぶやいた。
「わかってる。心配してくれてありがとう」
守くんの綺麗な目を覗き込むようにしてお礼を言うと、彼はふっと私から視線を外して横を向いた。
ほんのりと頬が赤い。ふふふ、照れてる照れてる。
「紫ってね、小さい頃から好きな色なの。
周りの人たちからはずっと変だって言われ続けてきたけど。
守くんもそう思う?」
「変だとは思わないけど、一般的には不安とか憂鬱を感じさせる色だろ?
神秘的なイメージもあるけど小さい頃から好きだっていう人は少ないんじゃないかな」
守くんはとても真面目に答えてくれた。
「やっぱり?」
ちょっとがっかりした私に、守くんは遠い記憶を呼び戻しているような難しい表情で話を続ける。
「赤は……情熱とか怒りのエネルギー。青は冷静さや落ち着き。
二色を混ぜた紫には情熱と冷静さのような正反対の感情の葛藤を和らげて、心のバランスをとろうとする働きがあるのかもしれない、って何かの本に書いてあった気がする。
対立する気持ちの衝突で心が壊れてしまわないように、無意識のうちに自分を治療しようとする作用をもつ色だ、って。
ひょっとしたら花純が紫を好きなのもそういう自己治癒力のひとつなのかもしれないな」
紫にそんな作用があったとは知らなかった。そういう角度から切り込まれたのは初めてだ。
守くんって実はとんでもなくすごいひとなのかもしれない。
「そんな風に言ってもらったの初めて。守くんってほんとにいろんなこと知ってるよね。感心しちゃう」
「本の受け売りだよ」
守くんは暇さえあれば難しそうな本を読んでいる。
興味のある分野の知識は深く、守くんとの会話の端々から私もそのかけらを拾うことができるのだ。
つい先日。
守くんと一緒の帰り道、私は生物の授業の話をしていた。
「今日はみんなで裏の森に入ってね、小川の中にいる巻貝を数えたりスケッチしたりしたの。サンショウウオの卵も見つけちゃった!」
「天気良かったから花純も光合成してパワーアップしたみたいだな」
「え? 光合成? 私、葉緑体もってないよ」
「花純は少し変わってるからもっててもおかしくない」
真面目な顔の守くんにそう言い切られると、自信がなくなってしまう。
「 …… ひょっとしたらひとつかふたつくらいはもってるかも」
「うそだよ」
納得しかけた私に守くんはいたずらっぽく笑い、肩の上でさっくり切り揃えた私の真っ黒な髪をそっと指でつまんだ。
「ほら、緑の黒髪」
意味がわからずきょとんとした私に守くんは照れたように笑い、さりげなく話題を変えた。
家に帰って調べてみると『みどりのくろかみ』は女性の髪を誉める言葉だった。
私の髪を、誉めてくれたんだ ── 。
反射的に手を当てた頬が熱かった。きっとこの時私は耳まで赤くなっていたのだと思う。
『緑の黒髪』には葉緑体がなくても確かに光合成できてしまいそうな響きがある。
その言葉を導くために光合成の話を持ち出すなんて。
私は守くんの頭の回転の速さを改めて思い知ったのだった。
私の無知を差し引いても守くんの頭脳はハイレベルだと思う。
この感動は電話やメールじゃなくて直接目を見て伝えたい!
だから私は次の朝、会ってすぐ守くんに言ったのだった。
「昨日は髪を誉めてくれてありがとう、すぐに気づかなくてごめんね。
私、守くんと同じレベルで会話できるように頑張るね」
守くんはちょっとびっくりしたようだったけれど、困った表情を浮かべたままで言った。
「オレのレベルなんてたかが知れてる。
それよりオレは今時貴重な花純のその独特の感性を大切にして欲しいよ」
── だからこそ、不思議に思う。
「こんなに頭のいいひとなのにどうしてテストの成績はあまりよくないのかしら。
授業中、居眠りしてることが多いから?」
ぺん、と守くんが私の頭を軽く叩く。
「それは言わない約束」
「 …… そんな約束いつしたっけ」
「今」
「ではそういうことにしておいてあげましょう」
「それはとてもどうもありがとう」
守くんと私はお互いの顔を見合わせて笑った。
みんなが夏服のせいか学校の中はいつもより明るく感じられる。
隣のクラスへ向かう守くんと別れて私は自分の教室に入った。
二年八組。
雑然とした教室の後ろにあるコート掛けの棚の上にはいつものことながら朝練の男子が脱ぎ捨てたジャージや柔道着が無造作に丸めて置いてある。
教壇に立つと嫌でもそれらが視界に入る先生方には大不評でいつも注意されてるけれど一向に改善される見込みはない。
すでに日常と化しているので私は別に気にならないけど。
クラスメイトと朝の挨拶を交わしながら窓際にある自分の席に鞄を置いた時、私の真後ろで、バシッ、バサ、と音がした。
振り返ると親友のみっちゃんこと、三橋珠美ちゃんが立っていた。
「あ、みっちゃんおはよう」
「あんたっ! 危ないじゃないのさ、こんなもの投げつけて!!」
私の挨拶は無視されて、みっちゃんは別の人物に怒鳴りつけた。
「あらごめんなさい、手が滑っちゃったわ」
怒鳴られたのにも関わらず艶然とした微笑みで近寄ってきたのは、同じクラスの朝倉菜摘さんだった。
この高校で一番の美少女と名高い朝倉さんは、ウェーブのかかったこげ茶の長い髪を揺らしながら、みっちゃんの足元に落ちている日本史の教科書を優雅な仕種で拾い上げた。
今日も綺麗だなあ。
「おはよう、朝倉さん」
「なにをのんびり挨拶なんかしてんの!このオンナ、花純にその教科書投げつけたんだよ、あたしが叩き落とさなかったら怪我してるとこだったんだから!
…… って、ぶつかってないのになんで腕が赤くなってるのっ!」
「これね、今朝ベッドから落ちた時にぶつけたの …… 」
照れながら言うと、みっちゃんはいきなり私を抱きしめた。
あ、いいなあみっちゃん、胸が大きくて。
「あたしあんたのそういう天然のボケっぷりが大好きだよ。
いつまでもそのままの花純でいて欲しい」
私たちの抱擁を眺めていた朝倉さんが呆れたように口を開いた。
「島崎くんはどうしてこんなおかしな人を選んだのかしら。
まったく、あなたのせいで私のプライドはずたずただわ。
あなたさえいなければ島崎くんも私のものになってたはずなのに!」
島崎というのは守くんの名字。
守くんに振られてしまった過去がある朝倉さんは、一旦諦めはしたものの相手が何の取り柄もない私だと知って憤慨しているのだった。
「その程度のプライドなら、一度粉砕させて最初から作り直した方があんたのためになるよ。
ほんと島崎の人を見る目は確かだね」
「なんですって!?」
「おや、もう一度説明しないと理解できない?
傲慢な上におばかさんなのかな、このフローラルの香りのお嬢さんは」
頬に向かってとんだ朝倉さんの平手をみっちゃんは余裕でつかんだ。
朝倉さんはすぐにつかまれた手を振り払い、みっちゃんを睨みつけている。
あああ、一触即発状態だ。
「あの、あのっ」
「なによっ」
朝倉さんの整った顔で睨まれるとすごく怖い。
でも、もともと朝倉さんは私のことを気に入らないのだから、私がこの場をなんとかしないと …… 。
「私、朝倉さんのフローラルの香りも、みっちゃんのフルーティーなシャンプーの匂いもどっちも好きよ」
朝倉さんは手に持った日本史の教科書で近くの机を力いっぱい叩きつけた。
「山村さんって、人としてどこか壊れてるんじゃないの!!」
「朝倉さん」
くるりと背中を向けて去ろうとしていた朝倉さんに声をかけると、怖い目つきで振り返ってくれた。
「守くんは『もの』じゃないよ、『人』なんだよ」
朝倉さんの一層凄みのある視線を私はまっすぐに見つめ返した。
── 先に目を背けたのは、朝倉さんだった。
苛立たしそうにひだスカートの裾を翻して廊下へ出て行く。何人かの取り巻きの男の子たちが慌てて朝倉さんの後を追う。
気づけば教室中の視線は私たちに集中していた。
「おはよう」
にっこり笑って挨拶すると、みんなは挨拶を返してくれたり、手を振ってくれたり、口ごもったり、あさっての方向を見たり、とそれぞれの反応を返してくれた。
「花純ってさ、ぽやんとしているようでいて自分の言いたいことは絶妙なタイミングできちんと言えてるんだよね。
あたしは天性の才能とみた。すごいよ」
みっちゃんが私の頭を撫でながら誉めてくれる。
「すごいのはみっちゃんの反射神経だよ。飛んできた教科書を叩き落とすなんて私にはできないもの。
いつも助けられてばっかりだね、ありがとうみっちゃん」
「そんなことないって。
花純がいなかったらあたしと朝倉は血みどろの戦いに突入してるよ」
「そもそも私がいなかったら、そんな状況にはならないんじゃないかと …… 」
「花純のおかげであたしは楽しませてもらってるよ、いろいろとね」
みっちゃんは本当に楽しそうに笑った。
実は私とみっちゃんの間では、『朝倉さんと友達になろう計画』なるものが密かに進行している。
最初に朝倉さんが絡んできた日、ただただ混乱していた私にみっちゃんが言ったのだった。
「朝倉は可哀想なオンナだねぇ」
それは守くんに振られたことを指しているのではなかった。
朝倉さんにはその性格のためか女の子の友達がいない。ちやほやしてくれる男の子たちにいつも囲まれている。
わがままを諭してくれる人は周りに誰もいない。
これまでの朝倉さんがそれで幸せだったとしても、これからの朝倉さんにとっては不幸なことかもしれない。
「ぬるま湯に浸かってるのは気持ちいいけど、時々熱湯を足さないとお湯が冷めて風邪ひいちゃう、みたいなことかな」
うなずきながら何気なくつぶやいた私の言葉をみっちゃんはとても気に入ったようだった。
「あたしたちが熱湯になるっていうのもいいかもね」
不敵に微笑むみっちゃんの熱湯は、時々ぬるま湯に差し湯するのではなく皮膚に直接ぶちまけているように感じられることもあるんだけど、それって気のせいよね 、うん……うーん?
たぶん朝倉さんは私を嫌っている。
でも、「嫌い」は「無関心」より「好き」に近い。ということは友達になれる可能性はゼロじゃない。
朝倉さんが絡んでくる時が私たちにとってのチャンスなのだった。
「朝倉で唯一評価できるのは、あたしたちに対して取り巻きには一切手を出させないところだね。
ま、軟弱な下僕どもにそんな根性がないだけかもしれないけど」
「だめだよ、下僕なんて言っちゃ」
けれどみっちゃんはにやりと笑ってなおも続けた。
「どう見たってあれは女王様とその下僕。
自信たっぷりの女王様としては、自分に全く興味をもたない島崎にプライドを刺激されてどうしても下僕のひとりにしたかったんだろうさ。
それともそんな自分に嫌気がさして自己改革を図るために島崎を必要としたのか …… 。
いや、あのオンナがそこまで考えてるわけないな」
途中から窓の外に視線を移して話していたみっちゃんがぱっと私を見た。
「それにしても朝倉の嫌がらせ、エスカレートしてきたね。言葉だけじゃなくて物まで投げつけるとは。
花純の忍耐力はすごいよ、普通怒るって、絶対」
「んー、怒るっていうよりも笑いたくなっちゃって。
どうしてかな、笑ってられるような余裕なんてないのにね」
そう言った途端みっちゃんはそれまでとは打って変わった真剣な表情で私を見た。
「花純、無理してるね?」
「え?」
「人間って心に負担がかかりすぎると笑いたくなるんだよ。
── しまった、もっと早く気づくべきだったな。
花純、朝倉友人計画はなかったことにしよう。
朝倉を更正させる前にストレスをため込んだ花純が壊れたら話にならない」
「あの、みっちゃん?」
「あたしか島崎にでも吐き出せればいいんだけど、花純のことだからたぶん自分でもわかってないんだよねえ。
何か対策を練らないと」
「みっちゃーん?」
すでに遠い世界の住人となってしまったみっちゃんは、私がどれだけ名前を呼んでもこちらに戻ってこないまま、ホームルームのチャイムが鳴った。
強烈な睡魔に襲われたのは三時限目の数学の授業中だった。
何の前触れもなくやってきたそれは、抵抗しようとすると吐き気や頭痛をもたらすほどの凄まじさで私を白日の夢の中へと攫っていったのだった。
…… ピシ
夢の中に入って真っ先に私に飛び込んできたものは、強烈な光と気のせいかと思えるほどとても弱く小さな音。
眩しさに慣れてきた目が周りの様子を少しずつ映し始める。
カシャ ───── ン
目の前にあった一本の樹が粉々に砕け散った。
微塵となったそのかけらはぱっと周りに広がると光の中に溶け込むように静かに消えてゆく。
「あっけないでしょう?」
私の横に綺麗なお兄さんが立っていた。
このひとは ── テミス・クレスだ!
ということは、これは今朝の夢の続き?
「不自然な形で終焉を遂げたひとつの心の末路です」
そうだった。この森の樹は、一本一本がひとりひとりの心。
樹が壊れたということ。
それが、ひとりの人間の心が失われたということを意味するのなら、その心の持ち主はきっと生きてはいない。
生きていないということは、つまり、死?
私は今、ひとりの人間の最期に立ち会ったことになるの?
背筋がざわりとした。
年月を重ねてやっと成長した樹が、こんなに簡単に壊れていいはずがない。そんなの、だめ!!
テミス・クレスの端正な横顔には悲しみと悔しさがにじみ出ている。
護りきれなかったのはテミス・クレスのせいじゃないのに。
なんだかいたたまれない。
私の視線に気づいてテミス・クレスはふわりと微笑んだ。
── うわあ、綺麗な笑顔。
ごめんなさい、守くん。
私、ちょっぴりときめいてしまいました。
「はじめまして」
今朝の夢でも聞いた透明感のある温かい声。
私は挨拶もそっちのけで思わず聞き返してしまった。
「え? 今朝の夢で会いましたよね」
美しい人を前に緊張して敬語になってしまった私に、テミス・クレスはゆっくりと首を横に振った。
「あなたは、僕に会ったかもしれない。でも僕が会ったのはドラセナであってあなたではない。わかりますか?」
わかりません。
今度は私が首を振る。
ドラセナ・テランセラ ── 今朝の夢ではそれが私の名前だった。
「あなたとドラセナは同一ではありません。
僕はあなたの夢を介することで、森に対する僕の危機感に共鳴したドラセナと言葉を交わすことができたのです。
おそらくあなたはドラセナに同調していたのでしょう。
ドラセナは今、あなたの心の中にいるのです」
私の心の中?
意味がわからず首を傾げた私にテミス・クレスは柔和な表情で微笑んだ。
「僕の名前は ── 」
「テミス・クレス、ですよね」
私は心の中ですでに何度も反復していたその名をすぐに口にすることができた。
そしてその直後、テミス・クレスさん、と敬称をつけ忘れたことに気がついた。
どうしよう、いきなり呼び捨てにしちゃった。
けれどテミス・クレスは気分を害した様子もなくさらりと受け流してくれた。
「そうです。あなたの名前は?」
「山村花純です」
「では、花純、と呼んで差し支えありませんか」
彼を呼び捨てにしてしまった私に差し支えなどあろうはずもなくこくりとうなずく。
「こちらへどうぞ」
テミス・クレスが歩き出したので私も慌てて後を追った。
白い衣の背中で輝く黄金の髪が揺れている。
綺麗な長い髪を見ると指先がうずうずして三つ編みをしたくなるのだけど、テミス・クレスの髪は美しすぎて触れることさえ畏れ多い気がする。
足元はさらさらのグラニュー糖のような白い土で少し歩きにくかった。けれどその土には森の樹々とは対照的な、生命をもつものの温かさが感じられる。
汚れのない無菌状態の真っ白な土。
この上に樹々は立っている。むき出しの心を無防備にさらしたままで。
もし私がこの樹々を傷つけてしまったら、それは誰かの心に影響を与えることになりはしないかしら。
「どうしました?」
思わず立ちすくんでしまった私にテミス・クレスは不思議そうに尋ねた。
訳を話すとやわらかく否定されてしまう。
「大丈夫ですよ。この森の樹には触れることができませんから、あなたが傷をつけてしまったり折ってしまったりすることはありません」
「触れない?」
「試してみますか?」
テミス・クレスが側にある樹を指さしたので私はおそるおそる指先を伸ばしてみた。
指はするりと幹の中に入ってしまったように見えた。
でも、指先には樹に触れている感触が全くない。
── 通り抜けてしまうんだわ。
ようやく納得した私にテミス・クレスが微笑みながら手招きしている。
「安心したようですね。並んで歩きませんか」
隣に移動する私を待って、テミス・クレスは話し始めた。
「この森の樹々が育つためには僕が司る金の光とドラセナが司る銀の光が必要です。
金の光は地上の幹や枝に作用して知性や行動力を成長させ、銀の光は地下の根の部分に作用して感性や情緒を成長させます。
その両方がバランスよく保たれることで心は安定するのですが、銀の光を欠いている今、物事を頭で理解する力ばかりが増長されて、乏しくなった感情がそれについていけない状態なのです」
よくわからずに首をひねった私を見てテミス・クレスは続けた。
「自分の感情が乏しければ他人の気持ちはわからない。
他人である以上全く同じ気持ちを共有することは不可能ですが、豊かな感情をもっていれば気持ちを近づけて思いやることはできるでしょう。
けれど銀の光によって育つべき感情は未発達のままです。
頭で理解したつもりでいても心では理解できていないために人間関係に軋轢が生じたり問題行動を起こしたりするのです」
ああ、そういうことならなんとなくわかる気がする。
毎日報じられる暗いニュース。
その中に人としての感情が欠落しているとしか思えないような事件がいくつもある。
ううん、そんな大袈裟なものじゃなくても身の回りでいくらでも見つけられる。
テミス・クレスは地面に落としていた視線をすっと上げた。
「人はもともと生きるということに対して貪欲なまでの執着をもっています。
体の中に細菌やウイルスが入ってくると体の健康を保つためにそれを排除しようとする働きが起こりますが、心の場合も同じで、何らかの原因によって自分の中に不快な気持ちが生まれた時には、心の健康を保つためにそれを排除しようとします。
けれど一度心の中に芽生えてしまった感情は心の外には排出されません。
適当な理由をつけて自分自身を納得させながら不快ではない感情にすりかえ、見えないように心の奥底へと沈めて表面上忘れてしまうことになります。
これも金の光の作用のひとつです」
「えーと …… 私、小さい頃に、捨てられていた子犬を連れて帰ったらお母さんに飼っちゃだめって言われて、泣きながら元の場所に戻してきちゃったことがあるの。
でもどうしても気になってその場所に戻ってみたら、子犬はもういなくて。
誰かに拾われたのか、自力でどこかへ行ってしまったのかはわからない……。
それって、飼えないって言ったお母さんを嫌いになった気持ちを、子犬がかわいそうだと思う気持ちで打ち消してしまうようなもの?」
昔のことを思い出しながら頭を整理しようとした私にテミス・クレスは微笑んでうなずいた。
「花純はお母さんを大切に想っているのですね。
中には母親への気持ちを残して、子犬に感じた気持ちの方を沈めてしまう人もいるのですよ。
── 花純の挙げた例では、母親に対する気持ちは表面上では子犬への憐憫や罪悪感に覆われて隠されてしまいますが、その気持ちは消滅することなく銀の光の領域である無意識の深いところでいつまでも残ることになります」
「いつまでも?」
「心が成長しない限り、いつまでも」
「心が成長したら?」
「心がバランス良く成長し、過去に手に負えなくて沈めてしまった気持ちを認められる強さをもった時に初めて、沈めた感情を浮かび上がらせることができるようになります。
今、花純はお母さんのことをどう思っていますか?」
「大切な家族。これまでもお母さんとはずっと仲良しだったけど、子犬を飼えないから戻してきなさいって言われた時のお母さんだけは、今も『好き』とは言えないし、言えない自分も好きになれない」
どんなに言いつくろっても、テミス・クレスにはすべて知られているような気がする。
だから私は、その時のもやもやした気持ちを未だに抱え続けていることを、正直に打ち明けた。
「ではその時、お母さんがどんな状況で、どんな気持ちで花純にそう言ったのか、わかりますか」
「気持ち ── 」
お母さんは私や子犬が嫌いで飼えないと言ったわけじゃない。
マンションの規定でペットを飼ってはいけないことになってるからとはいえ、置き去りにすれば死んでしまうかもしれない小さな命を放り出すようなこと、お母さんだってつらかったに違いない。
それは大人とまではいかないけれど、当時よりはちょっぴり成長した今の私なら理解できる。
理解はできるけど、でもすっきりしない。
私はお母さんにどうして欲しかったんだろう。
家で子犬を飼えるのがもちろん一番うれしかったに違いないのだけれど、そうできないことも、当時の私はうすうす感じていた。
それでもなお連れ帰ったのは、お母さんなら子犬を助けるためにきっとなんとかしてくれると信じていたから。
飼えないまでも一緒に飼い主を探すとか、保護団体に相談してみるとか、今ならお母さんに望んでいたことを具体的に挙げることができる。
けれど、あの頃の小さな私は、ただお母さんにすがるしかなかった。
でもあの時のお母さんは仕事で呼び出されて出かける間際で私とゆっくり話す時間もなく、子犬をもとの場所に返してくるように言い置いて、せわしなくいなくなってしまった。
私がお母さんの言うとおりにしないで、そのまま部屋に子犬を隠していたら?
ううん、あの時の私にはそんなこと、考えもつかなかった。
なにもかもがいっぱいいっぱいで。
そしてそれは、お母さんにとっても同じことだったのかもしれない。
だからあの時、お母さんはそう言わざるを得なかったし、私はそうせざるを得なかったのだ。
なのに、あの時、私はお母さんを責めた。
お母さんなんて嫌い、って。
あれ? なんだろう……。
子犬がかわいそうだと思った気持ちも、お母さんのせいで子犬を飼えなかったという思いも、どうしてあげることもできない自分への悔しさも、確かにあの時の私には抱えきれないほど渦巻いていたけれど。
今、私の中に湧き上がってきたもうひとつの想い。
『お母さんは私のことが嫌いなんだ』
あの時の私は、子犬を飼えないと言われたことを、私がお母さんから大切にされていない、愛されていないということなのだと曲解して、それが悲しくてさみしかった?
それほどまでに、私はお母さんのことが大好きだった……?
あの日の夜、ご飯も食べずに拗ねてベッドにこもっていた私の部屋にお母さんが入ってきた。
ぎゅうっと目を瞑って眠ったふりをしていた私の頭をふんわり撫でて、「ごめんね」とひとこと言っただけで、お母さんは部屋を出て行った。
「許さないもん」と声に出してみたものの、子犬のことも私のことも、そして嫌いなはずのお母さんのことまでもがかわいそうになってしまった私は、泣き疲れて眠るまで「ごめんなさい」と繰り返しつぶやいていた。
けれどそれでも、どこかで安心している自分がいたように思う。
お母さんが私を気に掛けてくれていたことがわかったから。
テミス・クレスに説明しようとしたけれどうまく言葉にならなくて、しかもなぜか涙がこぼれそうになって私はただうなずいた。
そんな私を察してか、テミス・クレスは私を励ますように微笑んだ。
「今もまだ、その時のお母さんを『好き』とは言えませんか?」
「お母さんを嫌いだったことなんて、本当はなかったみたい」
言葉と一緒にこぼれ落ちた涙を指先で拭う私を、テミス・クレスはただ穏やかに見守っていてくれた。
「見えないように沈めてしまった気持ちを心の奥から引き上げるためには手がかりとなるものが必要です。
花純の場合なら、子犬を飼えなかった記憶そのもの、自分の無力さを感じること、もしくは全く関係なさそうな別の記憶や感情かもしれません。
その手がかりを照らし出すのが銀の光なのです。
自分自身だけが連想できる、沈めた感情と強く結びついているその手がかりのことを、私たちは『鍵』と呼んでいます」
「でも今は銀の光がないから心のバランスがとれてないのよね?
『鍵』を照らし出すのも銀の光なら、たとえバランスがとれていても『鍵』を見つけることはできないっていうこと?」
テミス・クレスは悲しそうに目を伏せた。
「ええ、ですから沈められた感情は心の奥底に残されたままになるのです。
そして心のバランスがとれていない状態が長く続くと、その感情は気づかないうちに考え方や行動に悪影響を及ぼし始めます。
本来もっている自由な発想や可能性の芽が摘み取られるばかりでなく、偏った考え方しかできなくなったり精神的に不安定になったりするのはそのためなのです。
それが重度になってくると、心は病んできます」
砕け散った樹。
輝く光の中に溶け込むように消えた心のかけら。
美しかったその光景は、病んだ心の最期の姿だった。
「漠然とした不安感は病んだ樹から他の樹へと伝染していきます。
今、ここで食い止めなければ、いずれ森全体に広がってしまうでしょう」
シャランと澄んだ音が耳に響いた。樹が成長する音。
たぶんさっきからずっと耳には届いていたのに違いない。
でもその音を意識したのは今回の訪問では初めてだ。
銀の光がなくても樹は成長を続けている。
けれども病んだ心が治癒されることは、ない。
「銀の光を当てれば、樹を ── 心を治すことができるの?」
「銀の光によって感情が知性とのバランスをとれるほどに成長すれば、それ以上病は進行しません。
治癒するためには心の底に沈めた感情を受け容れ、改めて向き合うことが必要ですが、抑制を受けて偏った考え方しかできなくなっていれば自分が病んでいることにすら気づくことはないでしょう。
けれどしっかり向き合って解決すれば、そこから派生したさまざまな影響は解除されることになります。
病を治すということは結果的に心を大きく成長させることにもつながるのです。
銀の光は『鍵』を照らし出しますが、それを見つけるのは自分自身です。
探そうとしなければいつまでも見つかりません。
『鍵』から治癒と飛躍的な成長を導くのは金の光でも銀の光でもなく、自分自身にかかっているのです ── 」
言葉を切って立ち止まったテミス・クレスを不思議に思って見上げ、その視線を追うと、そこにはどっしりとたたずむ大きな樹があった。
周りの樹とは段違いの力強さと不思議な懐かしさを感じる。
「これが花純の樹です」
「これが? 何かの間違いでしょう、こんなに立派な樹が私の樹のはずがないもの」
だって私、朝倉さんに人としてどこか壊れてるんじゃないのって言われたのよ?
みっちゃんに壊れるんじゃないかって心配されてしまったのよ?
信じられないでいる私にテミス・クレスは苦笑した。
「間違いなく花純の樹ですよ。樹の根元を見て下さい」
そう言われて私はその樹に近づき、太くがっしりとした根元を覗き込んだ。
細い銀色の蔦が盛り上がった根に絡みついたまま、一緒に白い土の中に潜っている。
「この蔦が、ドラセナです。ドラセナは花純の樹に寄り添い、力を分けてもらっているのです」
テミス・クレスはつらそうにうなだれた。
「ドラセナには僕のように光そのものを創り出すことはできません。
金の光をその身に受け入れ、更に精細で優美な銀の光に変えるのです。
この森の変容とともにドラセナは徐々に力を失い、衰弱し、存在そのものが希薄になっていきました。
ドラセナがいつ消えてしまってもおかしくない状態の中で、この樹が僕たちを呼んだのです。
呼ばれるまま導かれるままにドラセナはこの樹の根元に座り、そのままこの銀色の蔦に姿を変えました」
「この樹が…」
テミス・クレスはうなずいた。
これだけ迫力のある樹なら、どれだけ栄養を分け与えてもびくともしなさそう。
私は自分の樹を根元からてっぺんの枝先まで見上げ、ただただ感心するばかりだった。
「ドラセナは花純の豊かな心から分け与えられた力によって、ゆっくりと回復することができました。
けれど、その力を受け取るために伸ばした深い根のために、蔦としての姿のまま動けなくなっているのです」
ぐい、と手を握り締められ、びっくりして見上げるとテミス・クレスが真摯な瞳で私をまっすぐに見つめている。
「花純、どうかドラセナを救け出して下さい! お願いします!!」
「えっ、私? 私にドラセナを救けることなんてできるの?」
私は困惑してテミス・クレスを見上げた。
「花純にしかできません。この樹の中に入ってドラセナを見つけて下さい」
「でも樹には触れないってさっき …… 」
「触ることはできません。けれど心の持ち主、つまり本人だけが自分の樹の中に入ることができます。
この森の中にある自分の樹は、自分の心への扉になるのです」
なるほど。
蔦の見えている部分だけを引っ張っても途中からちぎれてしまって、根の部分が残ってしまう。
蔦が私の樹に深く根を下ろしているということは、私が心の中に入って根を掘り起こさないとドラセナは戻って来られないんだわ。
「けれど」
そこで一度言葉を止め、テミス・クレスは真剣な顔で私を見た。
「何の虚飾もない自分の心と向き合うのはとても危険なことです。
樹の中で花純がとる行動次第で樹が飛躍的に成長することもありますし、逆に樹が枯れてしまうこともあります。
樹が失われてもドラセナは解放されますが、樹の中で何か大きな異変が起これば、花純は二度と現実の世界に戻れなくなる可能性すらあります」
「そんなに怖いところなの?」
「はい」
私はぐるりと森を見渡した。
私の樹があるということは、守くんやみっちゃんの樹もどこかにあるはず。
今は元気でも、このまま放っておいたらいつか病が伝染してしまうかもしれない。それは何としても防がなくちゃいけない。
私の目の前にあるこの樹の中にドラセナがいる。
そしてこの樹は私の心への扉。
朝倉さんとみっちゃんの言葉が気になっていた。
私、壊れてるのかな。壊れてなくても壊れそうになってるのかな。
その答えも、きっとこの扉の向こうにある。
そこがどんなに危険だろうと、そんなことは問題じゃなかった。
「わかった、行ってくるね」
あっさりと答えた私に、テミス・クレスはエメラルドグリーンの瞳を見開いた。
「行ってもらえるのですか? ああ、いえ、こんなにすんなりと受けてもらえるとは思っていなかったものですから」
「だって、テミス・クレスはそのために私をここへ連れてきたんでしょう?
危険があることもきちんと話してくれた。
私も自分のことをもっと知りたいし」
「── そんな花純だから、きっとドラセナも安心しきって深くまで根を伸ばしてしまったのでしょうね」
テミス・クレスは目を細め、慈しむように私を見つめた。
「危険にさらすことを承知で、敢えて僕は花純をこの森に呼びました。
僕にとってこの森の樹々すべてが大切です。もちろん花純の樹も。
ですから必ず、無事で戻ってきて下さい」
ああ、授業中の私を眠らせたのはテミス・クレスだったのね。
この優しいひとが、あの凶暴な睡魔で私を呼ばなければならなかったくらい森は危機的な状態に陥っているんだわ。
「絶対に、自分を犠牲にしようとは考えないで下さい。
花純の大切な人たちのことを想って、必ず戻ることができると信じること。
そのことを忘れないで」
そう言ったテミス・クレスの表情は怖いくらいに真剣で、私のことを本気で気遣ってくれていることが痛いほどよくわかる。
私は力強くうなずいた。
「行ってきます」
そのひとことが、私からテミス・クレスへの約束。
行くだけじゃない。必ず帰ってくるという誓いの言葉。
樹皮に右手を翳すと一瞬のうちにその部分を中心として黒い穴が広がり、私の体が通れるくらいの大きさになった。
これが入口。
ここに入ったら出られるかどうかわからない。
でも、私は行くの。そして、必ず戻ってくる。
私は穴の中に足を踏み入れた。