アブラムシパニック
アブラムシパニック
なんだとおっ!?
あたし、三橋珠美は突然襲いかかった悪夢のような事態に意識が遠のきそうになっていた。
中学の頃から慈しんできた親友、山村花純にオトコができたというのだ。
「それでねみっちゃん、島崎くんってすごく目が綺麗なの!」
季節は冬。
けれど、この世の春 ── といった感じで花純はうれしそうにオトコの話をする。
強ばった笑顔で聞いているあたしの心の中ではブリザードが吹き荒れていた。
── よくもあたしの大切な花純を誑かしてくれたな。
島崎守、許すまじ。
あたしの部屋には小さな鉢植えがひとつある。
カラーボックスの上に置かれたその鉢植えは、この間花純からもらったパイナップルミントというハーブだった。
縁に白い斑が入った緑の葉が美しく、しかも触ると爽やかないい匂いがする。
「ほんとは春とか夏とかもっと葉っぱの香りが強い時期にあげたかったんだけど」
家に遊びに行った時、あたしが誉めたのを覚えていてくれたらしい。
花純はそのミントをわざわざ分けてくれたのだった。
「みっちゃんのお部屋ならあったかいからきっと冬越しできるよ。
水が好きみたいだからあまり乾燥させないようにね」
八枚ほどついた小さな葉。茎には細かな毛のようなものが生えて …… ?
透明感のある黄緑色の小さな塊。
これは ── アブラムシだっ!
「ちっくしょう、花純のミントに何をするっ!!」
茎に三匹、葉の付け根の部分に一匹。
あたしはピンセットでアブラムシをつまみティッシュの上に落とした。
黄緑色の虫はそのままじっとして動かない。
だんだんその小さな虫が花純にまとわりつく島崎のように思えてくる。
あたしはティッシュを丸めてフローリングの床に叩きつけ、スリッパで思い切り踏んでからごみ箱に捨てた。
「たーまちゃん」
黒板を消していた日直のあたしの耳に、聞き慣れた艶やかな声が届いた。
教室の前側の戸口で夕凪貴裕がにこにこしながら手を振っている。
「その呼び方はやめろと言ったはず!」
かっとなったあたしは夕凪に蹴りを一発お見舞いした。
「おおっ、三橋が会長に蹴り入れてるぞ」
教室内でクラスメイトがざわめいていたがそんなことはどうでもいい。
ひとつ年上で昔からの知り合いである夕凪はあたしのことを「たまちゃん」と呼ぶ。
何度やめてくれと言っても聞きやしない。
制服に白く残った蹴り跡を手で払い落としながら夕凪はあたしを見た。
色素の薄い前髪が切れ長の目の上をさらさらと流れる。
「かわいい呼び方なのに」
「かわいくてたまるか!」
その呼び方には嫌な思い出がつきまとうのだった。
小学校に入学したばかりの頃だっただろうか。
あたしは学校の帰り道、夕凪のクラスメイトにからかわれたことがあったのだ。
「あれ? たかひろんちのちかくの子だ」
「ああ『タマちゃん』だな」
その頃は一歳年が違えば体格も全然違う。男子と女子ならなおのこと。
真新しいランドセルを背負った小さなあたしは一つ年上の男の子三人に囲まれてしまったのだった。
「やあ、タマ」
「タマじゃないもん、たまみだもん」
「じゃあやっぱりタマだ」
「タマー」
「ちがうもん、あたしたまみだもん」
ムキになって主張するあたしの後ろ衿を男の子の一人がつかみ上げた。
「おまえはネコだー」
ぷちん、と頭のどこかで音がした。
気がついた時にはあたしは年上の男の子三人をぼこぼこに殴り蹴り、おまけに噛みついて泣かしていたのだった。
あたしが睨みつけたのに夕凪は朗らかに笑っている。
「あのさ、生徒会誌に載せるアンケートの集計いつ頃できそう?」
不本意ながらあたしは練音高校生徒会副会長を務めている。
なぜそんなしちめんどくさいことをやっているかといえば、それは全てこいつのせいなのだ。
夕凪は容姿端麗、頭脳明晰な生徒会長。
選挙ではその容貌で大量の女子票を獲得した。
この練音高校では選挙によって選ばれた生徒会長が役員を指名する。
通常は先生が推薦する人材をそのままスカウトするのだが、この夕凪、先生の助言を無視して自分の独断と偏見で生徒会を組織してしまった。
家が近所で幼なじみだったあたしは否応なく悪の巣窟へと引きずり込まれてしまったのである。
「放課後残って片づけるから明日には提出できるよ」
「そう。手伝おうか」
「いーえ、結構! 一人でできる。用件はそれだけ?」
「…… つれないなあ、たまちゃんの顔を見に来たのに」
「用が済んだらとっとと帰るっ!」
黒板消しを持ったままの手でびしっと廊下を指すと、夕凪は整った顔に苦笑を浮かべて歩き去っていった。
「みーっちゃん。今日もお仕事?」
セーラーの上に紺のカーディガンを羽織った花純が、放課後あたしのクラスに顔を出した。
「うん、アンケートの集計。ごめん、時間かかりそうだから一緒に帰れそうにない」
「お手伝いしようか?」
「大丈夫、一人でできる量だから」
「でも手分けしたら早いよ」
いつもならすぐに引き下がる花純が今日に限って変に積極的だ。
「そう? じゃ、お願いしようかな」
勢いに押されてついそう答えてしまったあたしに花純は満面の笑みを向けた。
「じゃ、ちょっと待っててね。今、島崎くん呼んでくるから」
なに? 今なんて言った?
ぱたぱたと駆け出した後ろ姿を慌てて呼び止める。
「そこでどうして島崎が出てくる!」
「一人より二人、二人より三人でやったほうが早くできるでしょ?」
肩の上で切り揃えた真っ黒な髪を揺らしてくるりと振り返った花純は、にっこり笑って答えるとそのまま教室から出ていった。
…… 眩暈がしそうだ。
数分後、ひょろりとした長身のオトコを伴って花純が戻ってきた。
「みっちゃん、こちらが島崎くん。島崎くん、こちらがみっちゃん」
花純は非常に簡潔な紹介を済ませた。
「オレが『みっちゃん』と呼ぶわけにはいかないな。何て呼んだらいい?」
敵意むきだしのあたしに島崎は生真面目な様子で尋ねた。
「名字で、三橋」
「わかった」
この状況は一体なんだろう。
花純とあたしとあたしから花純を奪ったオトコと。
三人が机を向かい合わせにして同じ作業に没頭しているのは非常に奇妙な光景だった。
ふと思い出した。
島崎って、ついひと月ほど前に校内一と誉れ高い美少女の告白を断ったというあの噂の島崎ではなかろうか。
その美少女よりも花純を選んだ目は評価してやろう。
…… でもそのオンナって変な奴。こんなオトコのどこが気に入ったんだろう。
夕凪みたいに目立つ容貌をしているわけでもなく、成績優秀者の貼り紙でも名を見たことがない。
部活もやってないらしいし、非常に地味な人間のようだ。
目がキレイだと花純は言うが騒ぐほどのものじゃない。
ちら、と見るとちょうどこっちを見ていた島崎とぴったり目が合ってしまった。
「預かった分、できたぞ」
花純がぱっと顔を上げた。
「え、早い! 私まだ半分もできてない」
「それは山村が遅いんだ。半分手伝ってやる」
「ありがとう!」
島崎はさりげなく花純の手元に三分の一ほどを残して用紙を取り上げた。
くうっ、あたしの目の前でいちゃつくな!
しかしあたしは悔しながらも認めずにはいられなかった。
手際良く仕事をこなし、気遣いもスマートな島崎。
このオトコ、できる。
あたしは心の中で島崎をただの敵から好敵手へと昇格させたのだった。
当初の予定より大幅に早く仕上がったため、あたしはその日のうちに集計結果を生徒会室に届けに行った。
窓際で、沈みかけた西日を背に朱金色で縁取りされた夕凪が立っていた。
「あれえ、たまちゃん、どうしたの」
「その呼び方はやめろと何度言ったらわかる! …… 集計ができたから届けにきた」
「ずいぶん早かったね」
夕凪はあたしの言葉の前半を適当に聞き流し、ふわっと笑った。
「花純が手伝ってくれたから」
島崎のことは敢えて数に入れなかった。
「へえ、花純ちゃんなら手伝わせてもらえるんだ、いいなあ」
同じ中学だった夕凪は花純のことも知っている。
夕凪の申し出を断り、花純に頼んだのを快く思っていないらしい。
「僕の分の仕事がまだ終わってないんだ。手伝ってって頼んだら残ってくれるかな」
自分の分が残ってるのに他人の仕事を手伝うなんて言うな、馬鹿者。
「今日は花純と一緒に帰る約束してるからだめ」
「冷たいねえ。後光が射してこんなに光り輝いている僕が頼んでもだめ?」
「後光じゃない。それは逆光」
あっさり言い放ってドアに手をかける。
「そのポジションは夕凪向けじゃないよ。ご自慢の容姿が陰になってる」
「別に自慢してるわけじゃないのに」
ドア横のスイッチをパチパチと押す。
暗くなりかけていた部屋に明かりがついた。
「ぼーっと突っ立ってないで仕事してな。
花純に話して先に帰ってもらうから」
「え?」
あたしは目を見開いた夕凪を残して乱暴にドアを閉めた。
あああっ、どうしてあたしってこうお人好しなんだろうっ!
「そっか、お仕事じゃ仕方ないね」
大きめのダッフルコートを着てあたしを待っていた花純の、心から残念そうな声が耳に残る。
途中まで帰り道が一緒だという島崎と花純を歯ぎしりしたい思いで見送り、あたしは再び生徒会室に戻るのだった。
凍結した道を夕凪に送られて家に着いたのは七時を少し過ぎていた。
部屋では春の暖かさの中でちまっとしたミントがあたしを待っていた。
繊毛の生えた茎を覗き込む。
いないだろうね、アブラムシ。
…… いた。
この厳寒の時期にずいぶん気合が入ったアブラムシがいたものだ。
あたしの部屋は集中暖房が効いてるから暖かいけどさ。
気合が入っていようがいまいがミントにとってアブラムシが害虫であることに変わりはない。
あたしはまたピンセットで黄緑色の小さな虫をつまんだ。
茎に二匹、葉の裏に一匹。
緻密さを要求される作業に、不器用なあたしは一度つまんだ虫を根元に落としてしまう。
それをつまみあげた時、中指の背でぷち、という音がした。
ぷち?
「うわあああああっ!」
「どうしたアネキっ!!」
隣の部屋からひとつ違いの弟、卓也が血相を変えて飛び込んでくる。
「ミントが、ミントがあっ!」
ほぼ根元の部分からぱっきり折れてしまっていた。
卓也が大きくため息をつく。
「なんだそんなことで叫んだのー? もー大袈裟だなあ」
「そんなこと、だと?」
はっ、と卓也が一歩後ずさる。
その時にはもうすでにあたしの腕は卓也の首を締め上げていた。
「ごめんなさい、もう言いません、許して下さいい」
苦しそうにもがく卓也から腕を放すついでに頭を軽く殴ってやる。
ふう、と息をついた卓也は無残な姿のミントを覗き込んだ。
「姉上さま、とりあえずエンメイショチをホドコしてみてはいかがでしょうか」
「延命処置?」
「このまま置くよりはすぐに水にさした方が長持ちすると思われますが」
「あんた、ダテに受験生なわけじゃないんだねえ。ちゃんと頭使ってるじゃん」
「その大切な頭を殴るのはやめて欲しいんだけどなー」
「何か?」
「いいえ、なんでも」
卓也はほうほうの体で自分の部屋に戻っていく。
あたしは小さめのコップに水を汲み、そっとちぎれたミントの茎をさした。
どうしよう、根元からちぎってしまうなんて最悪だ。
アブラムシめ、あたしと花純の仲を引き裂くつもりなのか。
そんなにあたしが邪魔なのか、島崎!
コップの内側と水に浸かっている部分の茎に小さな気泡ができている。
それすらもアブラムシに見えてきて憂鬱になったあたしは、ミントを軽く持って水をくるくるとかき混ぜ、気泡を払ったのだった。
翌日はあたしの心を反映したかのような吹雪だった。
昼休み、お弁当を持ったあたしは重い足取りで花純のクラスに向かう。
花純に何て謝ったらいいんだろう。
がさつなあたしに愛想を尽かすかもしれない。嫌われるかもしれない。
…… はあ。
六組の教室を覗くと窓際の一番後ろの席でお弁当の包みを前にした花純が曇ったガラスを打つ霰を見ている。
島崎も同じクラスのはず。
視線をずらすと、友人らしき男子と向き合ってパンにかぶりついていた。
あたしに気づいた花純が小さく手を振った。
仕方がない、覚悟を決めよう。
あたしは顔を引きつらせて花純のもとへ向かった。
「島崎は一緒じゃなくていいの?」
「うん。私と島崎くんはクラスも一緒だし行き帰りも一緒だけど、みっちゃんとはお昼休み以外はなかなか会えないでしょ?
だからお昼くらいはみっちゃんとふたりで過ごしたらって、島崎くんが言ったの」
島崎があたしに気を回してくれた? いや、あたしにじゃなくて花純に、だろう。
── どこまでできるオトコなんだ、島崎!
「ただの地味なにーちゃんにしか見えないのにねえ ……」
「華やかじゃなくてもっ、島崎くんはすごく、すっごく、目が綺麗だもの!」
力いっぱい主張した花純の声は教室中に響き渡り、誰もが一瞬呆気にとられた。
びっくりしてこっちを向いた島崎をその友人がひやかしている。
「いや、うん、ただの地味なにーちゃんじゃないことはわかったから落ち着いて」
花純ははっと口ごもり、真っ赤になって俯いた。
その様子につい微笑んでしまう。
「おべんと食べよう。時間なくなっちゃうよ」
「うん」
さて、どう切り出したものかな。
率直に謝るのが一番いいのはわかってるんだけど。
フォークがレタスにうまく刺さらなくてザクザクやっている花純を見ていると、やっぱり怖くて言い出せなくなってしまう。
「みっちゃん全然食べてない。どうかしたの?」
「食べてる食べてる、大丈夫だよ」
花純はフォークを唇に当てたままあたしの顔を覗き込んだ。
「何か悩みごと?」
悩みは尽きないさ、ミントのこと、島崎のこと。全部花純関係のことだけど。
黙ってしまったあたしを見て花純はよほどの悩みなのだと思ったらしい。
「みっちゃん、ひとに話せない悩みは神様に聞いてもらうといいんだよ」
「は? 神様?」
この子はもう、一体何を言い出すんだか。
「あのね、私が悩んで行き詰まった時、神様が解決方法をぽんって弾き出してくれることがあるの」
「…… 神様ね」
半ば呆れているあたしに花純は真剣な顔で話し続ける。
「うん。神様は遠いところじゃなくて自分の中にいると思うのよ。
私の中の神様は私が忘れてしまった記憶とか知識とかを全部覚えていてくれて、悩んだ時にはそういうものを総動員してそれまで思いつかなかった方法を教えてくれることがあるんだよ」
「それは自分でよく考えたら出てきた答え。神様の力じゃなくて自分の力」
「うん、そうかもしれない。でもね、教えてくれてありがとうって誰かに感謝したいもの。
自分に感謝するのはなんだか変だから神様のおかげだって思うことにしたの」
花純らしい思考回路だった。
何かあるごとに感謝されていれば、そりゃあ神様だって花純の味方にもなるというものだ。
…… 花純は今までそうやって自分の力で悩みを解決していたのだろうか。
花純にそんな強さがあるなんて気づいていなかった。
あたしは花純を守っているつもりでいたけど、花純は自分の力でしっかりと生きている。
よく考えれば当たり前のことなのに、なんだかショックだった。
結局ミントのことを話し出せないまま昼休みが終わり、あたしは花純のクラスを後にした。
放課後、あたしはふらふらと生徒会室に向かっていた。
花純の言葉でふと思い出したことがある。
花純の神様はあたしにも有効らしい。
何をかくそう、夕凪の家は花屋なのだ。
借りを作るようで気が進まないけど夕凪に聞いてみよう。
ひょっとしたらミントが助かる方法を知ってるかもしれない。
生徒会室には誰もいなかった。
夕凪とあたしを除く役員は部活に入っているため、この時間ここで会うことは会議以外ではあまりない。
彼らが忙しいから夕凪とあたしにかかる負担が大きくなるんだけどさ。
手近な椅子に座り頬杖をつく。
机の上には生徒会誌の割り付け案や走り書きメモが散らばっていた。
それをぼんやり眺めているうちに夕凪がやってきた。
「おや、仕事熱心だねえ」
「頬杖ついてぼんやりしてるのが?」
「ここに来るだけで十分熱心だよ」
ははは、と夕凪は笑った。
「家にミントがあるんだけど、根元から折れちゃったんだよね。
何とか助かる方法、ないかな」
尋ねたあたしに夕凪はさらりと答える。
「ああ、それなら折れた茎は水にさしておけば根が出てくるからそれを植えればいい。
土の中に根が残っていればそこからも新しい芽が出てくる」
── は。そんな簡単なことだったんだ。
頬杖をついていた腕が危うくすべりかける。
「ミントは生命力が旺盛な植物だから特別に手をかけなくてもどんどん育つよ」
特別に手をかけなくても、どんどん育つ。
あたしが守っていなくても、花純は一人でやっていける。
「アブラムシがついた時には?」
「手かブラシで取る。できれば薬は使わない方がいいよ、強すぎると枯れるし。
まあ、枯れてしまえば虫もつかないから、虫がつくうちが華なのかもしれないけどね」
虫がつくうちが、華。
虫がつかなくなった時には枯れている。
あたしは花純が枯れて虫が寄りつかなくなるまで虫を追い払い続けるつもりでいたのだろうか。
誰よりも大切に想っている花純を、あたしは自分の気持ちだけを優先して不幸にしようとしていた?
「たっ、たまちゃん? 地道な手作業で追いつかないほどアブラムシの被害は甚大なのかい?」
夕凪は何を慌てているんだろう。
顔を上げると机の上にぽた、と滴が落ちた。へ?
夕凪はポケットから取り出した皺ひとつない淡いグレイのハンカチであたしの頬を丁寧に押さえる。
あたしは目を伏せてつぶやいた。
「あたしが世話をしなきゃ枯れると思ってた。でもミントは強いんだ …… 」
「それ鉢植えの話だよね? 直植えだったら何もしなくても他の植物を枯らす勢いで どんどん勢力を拡大していくけど、鉢植えならいくらミントが強くても最低限の手入れをしないとすぐ枯れるよ」
あたしは夕凪の顔を見た。
何を当たり前のことを、とでも言いたげな表情だ。
…… そう。そうだよね。
そりゃあ、手入れしなきゃ枯れるさ。ミントは植物だから。
花純は人間だ、自分の意志をもって行動できる。
植物じゃない。手入れしようがしまいが黙って枯れたりはしない。
どんな状態でも幸せに向かって生きていける。
── はっ。
あたしは今とんでもない不覚をとらなかっただろうか。
夕凪に涙を見せ、その上顔を拭かせた!?
「レタリングの本、返してくる!」
あたしは手近にあった本を引っつかむと勢いよく廊下に飛び出した。
図書室に本を返却した後、生徒会顧問の佐々木先生につかまったあたしは、間の悪いことに夕凪に頼まれていたらしい書類を預かってしまった。
生徒会室に戻らないわけにはいかない。
とろとろ階段を降りていて遭遇したのはランニング中のサッカー部だ。
雪でグランドが使えないため校内で基礎体力を培っているらしい。
あたしは壁際に寄って彼らが通り過ぎるのを待つ。
汗くさい集団が行ってしまった後、遅れていたらしい部員が駆け上ってきた。
彼は焦っていたのか前も見ずにあたしに突進してくる。
慌ててよけたあたしは足を踏み外し、バランスを失った。
「うわ」
落ちる! と思った瞬間、下から駆け上がってきた誰かがあたしを抱き止めた。
思わず手を離してしまった書類がひらひらと舞い落ちる。
見上げたあたしの目に映ったのは夕凪のキレイな顔だった。
しかもあたしをしっかり抱きしめたまま離そうとしない!
こっ、これはなにごと!?
硬直してしまったあたしを夕凪は遠い目で見つめた。
「たまちゃんはずいぶん大きくなったんだねえ」
「こんの、オヤジっ!!」
思わず突き飛ばしてからあたしは思い出した。
夕凪があたしを助けてくれたこと。
ここは階段だったこと。
夕凪は数段下の踊り場で足を押さえてうずくまっていた。
保健室の前で夕凪を待っていたあたしに声をかけてきたのは島崎だった。
花純があたしを探し回っているらしい。
花純を呼んでこようとする島崎を呼び止める。
「ねえ、花純のどこを気に入ったのさ」
「── 一見弱そうに見えるのに芯が強いところ。でもそこが脆さでもあるから護りたいと思った」
あたしは改めて島崎を見た。
『目が綺麗』と花純が言っていたのが初めてわかった気がする。
島崎の目には人の本質を見抜く力があるのだ。
ひょっとしたら中学から一緒にいるあたしよりも深く花純の内面を理解しているのかもしれなかった。
「あたし、あんたがいいかげんな気持ちで花純とつきあってるんだったら殴ってやろうと思ってた」
島崎は口元で笑ってあたしを見た。
「どうする、殴るか?」
「もういい。あんたたちラブラブだから」
そう言った途端、島崎が声を出して笑った。
── びっくりした。こいつこんな風にも笑えるんだ。
「何がおかしいのさ」
「いや、オレ、山村に好きな奴はいるのかって聞いた時、間髪入れずに『みっちゃん』って答えられて。
手強いライバルだと思ってたんだ」
花純 …… あんたってなんてかわいいの。
花純にとってもあたしは特別な存在らしい。すごくうれしかった。
「あっ、みっちゃん見つけたっ!!」
走ってきた花純は勢いのままあたしに抱きついた。
ほのかに石鹸の匂いがする。
「あたしを探してたんだって?」
「うん、何か深刻そうだったから。
お昼に言い損ねちゃったけど、他のひとから助けられるのも自分の力なんだよ。
自分が頑張るから周りが力を貸してくれるの。
私もみっちゃんからいっぱい助けてもらってる。
だから私でよかったらお話聞かせてもらおうと思ったの」
外見だけなら花純よりかわいい女の子は山のようにいるだろう。
でも花純の場合はキレイな心が外側ににじみ出てきた本物のかわいらしさなのだった。
かわいいっ、愛しすぎるっ!
あたしは思わず花純を抱きしめてしまった。
「ごめん、花純からもらったミント、折っちゃったんだ。
根の部分からも新しい芽が出てくるらしいけど、折れた茎も根づかせるから赦してくれる?」
「ひょっとしてそのことで悩んでたの?」
あたしがうなずくと花純はにっこり笑って言ったのだった。
「みっちゃんが真剣に悩んでたのはミントをとても大切にしていてくれたからでしょう?
私それだけでうれしいよ」
この笑顔だ。
この無邪気な笑顔をあたしは護っていきたいと思っていたのだ。
視界の端で島崎が慈しむように目を細めて花純を見ている。
よし、このオトコなら花純の笑顔を護っていけるだろう。
「花純、島崎のことを『島崎くん』じゃなく『守』って名前で呼んでごらん」
「え? えええーっ?」
顔を真っ赤にした花純を置いといてあたしは島崎の方を向く。
「島崎も『山村』じゃなくて『花純』って呼んでいい。あたしが許す!」
島崎がため息をついた。
「どうしてそこで三橋が仕切るかな …… 」
保健室のドアから夕凪が出てきた。
「怪我は?」
「足首の軽い捻挫だけ。たまちゃんには心配かけちゃったね」
「ごめん、助けてくれてありがとう」
夕凪が驚いた顔であたしを見た。
素直に謝ってお礼を言うのがそんなに意外かい。
あたしは気づかないふりをして背中を向けた。
「さ、みんなで帰るよ」
根が残った鉢とコップにさした茎。
さすがにアブラムシの姿はない。
今日、花純の神様はあたしの悩みを一気に解決してくれた。
しかし!
あたしはまた困った事態に頭を悩ませている。
夕凪に抱きしめられた感触が抜けないのだ。
あの後花純にも抱きつかれたのに、残っているのはなぜか夕凪の感触。
こんなこと、純粋無垢な花純の神様に頼るわけにはいかない。
あたしの中にも神様はいるだろうか。
── いるに違いない、あたしに似てとびきり性格の悪い奴が。
そいつは感謝を怠っているあたしに試練を与えているのだ。
だーっ、もう!!
あたしの悩みは尽きるところを知らない。