鏡に映る影
第四章 躍動
そんなこんなでやっと落ち着いた日常を取り戻したオレの元に小包が届いたのは十一月の末のこと。
送り主は、遼の母親だった。
遼 ──
やっと落ち着きかけた気持ちをまたかき乱されそうになる。
一つ深呼吸してから包みを開くと中には白い封筒と一冊の本が入っていた。
部屋中探しても見つからなかった夢辞典。
それを手にして、オレはやっと思い出した。
遼にせがまれ、受験前にこの本を貸したことを。
封筒から出した縦罫だけのシンプルな便箋にはおばさんの整った文字が流れるように書かれていた。
両親に宛てた遺書にこの本をオレに返すよう書かれていたのだが、最近遺品整理をしていて出てきたのだという。
遅くなって申し訳ない、遼の分まで元気で、という内容で手紙は締めくくられていた。
震える手で本をつかみ、ぱらぱらとページをめくってみる。
最後のページを開いた時、オレはすっと血が引くのを感じた。
そこには ── ルーズリーフに書き込まれた遼の手紙が挟まっていたのだった。
『 守へ
守にはひどいことを言ってしまったよね。
守はちっとも悪くない。僕の心が弱かっただけなんだ。
僕は目先の壁しか見えていなかった。
目の前の壁を越えることに必死で、その先なんて考える余裕がなかったのかもしれない。
守は違う。
もっと奥の、もっと大きな壁を見ようとしている守がいつもうらやましかったよ。すごいと思ってる。
でも、僕には目前の小さな壁が全てで、それすら越えることができなかったんだ。
僕にかけられた期待は大きかった。
父さんと先生を落胆させ、母さんを泣かせ、守に八つ当たりして傷つけて。
自分でももう、どうしていいのかわからない。
だから、いなくなってしまおうと思う。
僕はこの現実から逃げる。
逃げた先が今よりいいものかどうか、そもそも先があるものなのか、そんなことは全然わからないけど、もうそれしかないんだ。
そんな僕が言うのもなんだけど、守は頑張って。
僕が尊敬した守だ、絶対いつか立派な学者になる。
期待じゃないよ、これは予言。
当たっても外れても構わない。
だから変に気合を入れなくても大丈夫。
僕の分まで頑張れなんて言わない。
守がそんな負担を負う必要なんてないからさ。
一緒の高校に行こうって約束、果たせなくてごめん。
ずっと親友でいてくれてありがとう 』
迷って苦しんでいる遼が目に浮かぶようだった。
もっと早く遼に会いに行っていれば遼は思い止まったかもしれない。
間に合わなかった自分が悔しかった。
遼は最初からオレに呪いなどかけていなかった。
オレは自分の弱さを遼のせいにして、自分で引きこもっていただけなのだ。
遼を信じきれなかった自分が恥ずかしかった。
こんなにオレのことを気にかけてくれていた遼を、大切な親友を、オレは自分の心の弱さから貶めていたのだ。
「遼 …… りょう …… 」
涙が止まらない。
合格発表のあの日、遼に裏切られたと感じたあの日、もっと強く遼を信じていれば遼を失わずに済んだのかもしれない。
心理学の知識なんて関係ない。
中途半端だったのはオレの気持ちだったのだ。
遼は永遠に失われてしまった。オレには救えなかった。
ああ、そうか。鏡に映るのは自分自身。
いつか見た夢の鏡に映った遼は、オレの罪悪感だったのかもしれない。
遼を救えなかったという罪悪感がオレから大切なものを取り上げて自分を罰しようとしていたのだろう。
だから遼の姿をとる必要があったのだ。
オレは …… 遼に、怒られたかったのかもしれない ── 。
あの夢を見ることでオレは遼の死を心から受け止めることができた。
そして遼のいないその先の人生を生きていくための啓示を鏡の中の山村から授かったのだ。
遼はもういない。けれどオレはここに在る。
ここに在り続ける限り、いくつもの壁がオレの前に立ちはだかることだろう。
遼を失ってから初めて当たった一枚目の壁は、今完全に乗り越えた。
オレは生きる。遼の予言を道標に、前に向かって進み出すよ。
── ありがとう、遼。
今、気づいたことがある。
心理学関連の道に進みたいと息巻いていたあの頃、確かにオレは本気でそう考えていた。
しかしその水面下では、人の輪に入る下準備としての知識を心理学に求めていたのかもしれない。
きっかけはきっと、友達を求める気持ちだったのだ。
かなり婉曲なやり方だったが結果的には遼と友達になれた。
それは遼からの働きかけによるところが多かったけれど。
強く望めば願いは叶う。
そうかもしれない。
願いに近づくために考え、行動を起こすのは他でもない自分自身なのだから。
やっと涙が止まったオレは、ふと、ベッド脇の小さな鏡を覗いてみた。
まぶたは腫れ、鼻先も赤く、目も充血してそれはひどい顔をしていた。
けれど ──
茶色の瞳は、台風が過ぎた後の青空のように明るく澄んでいた。
夢を見た。
オレは薄暗がりの中、三枚の大きな壁に囲まれていた。
出口のない正三角形の部屋に、真上から光が射し込んでくる。
サラサラサラサラ ……
オレの体が足元から白い砂に変化していった。
オレの姿を形どった袋に真っ白な砂が詰まっていく。
パチン!
袋が弾けた瞬間、オレの意識は上空に昇っていた。
バラッ
床に散らばったのは砂ではなく色とりどりの石。大きさも形もばらばらだった。
オレはそのまま昇り続ける。
オレを囲んでいた大きな壁は鏡だった。
向かい合った三枚の鏡はお互いの鏡像を反射し合って、丸く切り取られたオレの視野いっぱいに美しい模様を描き出す。
これは ── 万華鏡?
ざらりと石が動き、また別の美しい模様が描き出された。
すべての石が鏡に映れば美しい模様ができるとは限らない。
隠れて見えないものがあるからこそ美しい模様になることもあるだろう。
これらの石は全て生きている。
おそらくこの石を育ててきたのは自分自身だ。
育てられて大きくなった石は育たずに小さなままのものを隠してしまう。
けれど育たなかったからといって、上から見えないからといって、その石が消えてしまったわけではないのだ。
誰もがみな肉体という不透明な器の中に宝石の原石を持って生まれる。
同じ素材を持っていても育て方は人それぞれだから自然と育つ石に違いが出てくる。
それが、個性となってあらわれてゆくのだ。
模様は常に変化し続ける。
ゆっくりと、そして時には激しく ── 。
いつのまにかオレはまた万華鏡の中に戻っていた。
オレを取り囲む鏡の中には遼がいる。山村がいる。砂田がいる。朝倉がいる。そしてクラスメイトの面々。
もう、逃げ出そうとは思わなかった。
鏡の中の人間達をオレは見つめる。
閉じ込められたオレを助け出そうとするように、遼が微笑んでオレに手を差し伸べていた。
吸い寄せられるように伸ばしたオレの両手を遼はしっかりとつかみ、片方を砂田に、もう片方を山村の白い手に重ねた。
その瞬間、空間が捩れた。
まぶしい光とともにオレは草むらに投げ出されていた。
手元には鏡でできた小さな三角柱が転がっている。
…… 万華鏡、なのか?
中表にひっくりかえり、外側と内側が反転した万華鏡。
では、美しい模様を創り上げていた、中に入っていたはずの原石は?
見回したオレの周りには花が咲いていた。
そよ風に揺れる白いマーガレット。
力強くそびえたつ濃い黄色のヒマワリ。
網膜に焼きつくような真紅のバラ。
チューリップ、スイセン、アサガオ、スズラン、その他名も知らない花々。
どの草花もしっかりと地面に根を張り、生き生きと伸びている。
その中でちぎりとられた青いワスレナグサだけがオレの足元にひっそりと散らばっていた。
オレは丁寧にそれを拾い集め、近くに流れていた小川でそっと放す。
緩やかな流れに乗ったワスレナグサは少しずつオレから離れていく。
その青い小さな花が見えなくなるまで、オレはずっと静かな流れを見つめていた。
雪が降っていた。
ふわりとした塊がそろそろと空から落ちてくる。
帰宅途中、オレは山村の小さな後ろ姿を見つけた。
サンドベージュのダッフルコートを着て紫の花柄の傘をさして歩いている。
北海道はパウダースノーだから払えばすぐに落ちるし、かえって視界が遮られるから傘をさすのは危険だという説もあるが、こんな日、生徒のほとんどは傘をさしている。
山村は重心が体の上の方にあるようなふわふわした不安定な歩き方をしていた。
転びそうで危ないなと思って見ていると案の定、ひやあ、と短い声をあげて本当に転んでしまった。
ペタンと路面に座り込むようにして呆然としている山村にオレは駆け寄って声をかける。
「大丈夫か」
「うん、ちょっとびっくりしただけ」
山村の腕を引っ張って立ち上がらせる。
「手袋は?」
「えへへ、忘れてきちゃったみたい」
照れ笑いする山村の手は真っ赤にかじかんでいた。
失礼に思われない程度にコートの雪を払ってやり、ポケットに入れていた使い捨てカイロを渡す。
「ありがとう。うわあ、ほかほかー」
山村はうれしそうに手のひらでカイロを包み込んだ。
本当は自分の手で暖めてやりたいところなのだが、それはさすがにクラスメイトとして出過ぎた行為だろう。だから。
「手が暖まるまで、鞄持っててやるよ」
「えっ、いいよ、自分で持てる」
「凍傷になるぞ。むくんで感覚がなくなった後に水脹れができる。
ひどくなるとそれが潰瘍になって皮膚の壊死による指先切断 …… 」
「きゃああ、暖めるわ、鞄、お願いしますっ」
「ああ」
慌てた様子がかわいらしかった。
傘を腕と肩で支え直し、大切そうにカイロを手で包んだ山村がオレの顔を覗き込む。
オレは視線を外さなかった。
初めて自分の意志で山村のまっすぐな視線を負けない強さで見つめ返す。
オレを映す瞳は鏡。
鏡の向こうにある隠された山村の本心を見たかった。
オレは一心に瞳の奥にあるものを探そうとする。
その時、山村がびっくりしたように声を出した。
「島崎くんって、すごく綺麗な目!」
…… 綺麗な、目。
意外な評価に戸惑いつつ、オレは返答する。
「現代文の時間にずっと寝てたから目の疲れがとれたのかな」
眠った後には充血がとれるから確かに目が綺麗に見えるかもしれない。
でも山村が言う『綺麗』はそんなことを意味しているのではないような気がしていた。
あれだけ人の心に入り込める視線が、表層の状態だけを捉えているとは思えなかったのだ。
山村はオレの目に何を見たのだろう。
何を綺麗だと思ったのだろう。
オレと山村は他愛もない世間話をしながら雪の道を歩いていた。
「そういえば、夏に島崎くんと公園で会ったことがあるよね。朝、学校に行く前に」
「ああ。 …… 今もシミュレーション、続けてるのか」
「── すごい。覚えててくれたんだ」
山村はうれしそうに笑った。
「さすがに今は時々ちょっと覗く程度。
雪に埋もれる公園も趣があっていいかなとは思うけど寒いし。
誰かが作った雪だるまとか雪うさぎとかがあるから、お花はないけど殺風景じゃないんだよ」
その横顔は傘が陰を落としているにも関わらず本当に楽しそうに輝いていた。
「本当にあの公園が好きなんだな」
「うん。あそこに行くと元気になれるもの。植物から栄養を分けてもらってるみたい。
落ち込んだ時なんかも公園でぼーっとしてるといつのまにか立ち直ってたりするのよ。
私、すごく単純な精神構造なのかもしれない」
山村はくすくす笑って自分の手元を見つめた。
…… ? 何だろう。いつもと様子が違うような気がする。
── 視線だ。
いつもなら必ず相手の目を見ながら話す山村が、どうしたことかオレと目を合わせようとしない。
時々オレの顔は見る。でも、目を見ない。
嫌われたのだろうか。いや、それならこんなに楽しそうに話をしているのはおかしい。
なぜ。
『島崎くんって、綺麗な目!』
そう、あの時からだ。
人と話す時に山村が視線を外したのはオレが知る限りでは初めてだった。
視線が、強すぎたのだろうか。
山村に負けないようにまっすぐに見つめた、その視線が。
かつてオレが山村の視線を怖いと感じたように、山村もオレの視線を怖いと感じてしまったのだろうか。
心の中を見透かされそうな気がして。
「島崎くんは駅の方向?」
やわらかな山村の声が届いた。
「ああ」
「私ね、ここまっすぐなの。鞄持ってくれてありがとう」
いつのまにか公園手前の交差点まで来ていた。
ああそうか、と鞄を渡す。
「これも、どうもありがとう」
山村は手に持っていたカイロをオレに返そうとする。
「いいよ、どうせ使い捨てだし、オレ手袋もってるし」
「手袋があるのにカイロも持ち歩いてるの?」
「オレ、末端冷え性だから」
「それじゃやっぱり島崎くんに返さなくちゃ」
「今はオレよりも山村の方が必要だろう」
「でも」
「凍傷。水脹れ。潰瘍。壊死。指先切断」
「そっ、そうねっ、ありがたくいただきます」
ぎこちなく笑った山村はふっと下を向き、それから意を決したように顔を上げた。
「あの …… ありがとう」
視線が交わる。
瞳の鏡に映った自分の姿ではなく、お互いの瞳の奥にあるものを見つめようとする視線。
「また、明日ね」
視線を外さないまま、山村が笑った。
「ああ。転ばないように気をつけろよ」
「うん、ありがとう」
横断歩道の信号が青になる。
にこにこと手を振って山村は渡っていった。
その姿を見送り、オレが右の道に歩き出そうとした時、突然横断歩道の向こう側にいた山村が振り返った。
立ち止まったオレに小さく手を振ると、今度こそ本当に山村は背を向けて歩いて行く。
相変わらず転びそうな危うい歩き方で。
その頼りない後ろ姿が、何とも言えず愛しかった。
追いかけて行って抱きしめたかった。
『強く望めば願いは叶うんだよ』
叶えるためにはじっとしていてはだめだ。
『変化は起きるものじゃなくて起こすものだと思うんだ』
オレは動き出すよ、遼。
車が来ないことを確認し、オレは山村が渡った横断歩道を信号無視して駆け出した。
紫の傘が揺れている。
「山村!」
びっくりした顔で山村が振り返る。
「どうしたの、島崎くん」
オレを見上げるまっすぐな視線はもう怖くない。
オレは自分を直視できる。逃げずにまっすぐ自分を見つめることができる。
── 今のオレなら鏡を通り抜けることができるだろうか。
賭けてみよう、オレの想いの強さに。
望む気持ちを強化するためではなく。
願望を実現させるために。
目の前の磨き上げられた鏡に向かって、オレは願いを口にした。